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2006/02/24

聖なる真実

創世記 第45章

 ヨセフが自分のことを兄たちに打ち明けたとき、彼はやさしく語った。彼は、自分がなぜ今ここにいるのか、それは何のためなのかを語った。
 預言者は、神のなさることをすべて知っているわけではない。彼はむしろ彼が言葉を語る相手よりもわずかに早くそれを知るに過ぎない。それは、彼がどんなときにも神に信頼し、神に聞いているからである。
 一般の人の人生は、その多くの時間が自分で考える時間であるのに対して、預言者の人生の殆どは、神の言葉を聞く時間なのである。
 ヨセフと兄たちは、殆ど同じ時期に真実を知った。それは、ヨセフがエジプトへ売られてからそれまでの気の遠くなるような期間に比べれば、殆ど同時との言えるような時期であった。しかし、ヨセフの方が兄たちよりもわずかに早くそれを知ったのであった。それは、彼が預言者であったことによる。その意味で預言者は、世の人々と運命を共有しているのである。
 ヨセフがエジプトへ売られたのは、イスラエルが海の砂、空の星のように増え広がるという神の約束が実現するためであった。神は、社会性のまったくないこの民を、エジプトに養わせようとされたのである。
 そしてその後、神はイスラエルを荒野へ連れだし、そこで契約を結ぼうとされたのである。イスラエルは、そのような意味で非常に特殊な民族だ。それは、社会というものを持っていない。いつも個人対神という構造になっている。そしてそれは同時に、民族対神という構造にもなっている。このような民が他にあるだろうか。それは、神が自ら純粋培養された民なのだ。ご自身の壮大な計画をこの地上に成し遂げるために。
 父なる神様。あなたの聖なる民に連ならせてください。

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ヤコブの家への裁き

創世記 第44章

 ヨセフは、ヤコブの家に神の裁きを遂行した。「神の裁き」とは何だろうか。それは、単なる罪の精算ではない。それは、愛、哀れみ、義、威光、尊厳等々、神のご性質のすべてを現実世界の中に明らかにすることである。そのとき、現実世界はそれに耐えることがでしない。そしてそこに悔い改めと回帰が生起するのである。
 この場合の「悔い改め」とは何だろうか。それは、兄たちがかつてヨセフを裁いたことに対して、裁きは神のみが行うべきであり、人は安易に他人を裁いてはいけないという悟りである。
 また「回帰」とは、自分の力で生きてきたヨセフの家が、ただ神の守りと導きにのみ拠り頼む者となることである。
 ヨセフは、自分にひざまずく兄たちを前にして、復讐としての裁きではなく、神の代弁者としての哀れみの裁きを遂行したのだった。
 父なる神様。あなたの義と裁きを誉めたたえます。

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永遠の信仰

創世記 第43章

 エジプトの宰相となったヨセフは、食物を買いに来た自分の兄たちに荒々しく応対し、末の息子ベニヤミンを連れてくるように要求した。しかしヤコブはかつてのヨセフようにベニヤミンをも失うことを恐れて、彼を連れていかせることを拒んだ。
 食物が再び尽きたとき、ヤコブはついにベニヤミン行かせる決心をして、「全能の神がエジプトの宰相の前に好意を得させてくださるだろう」と言った。
 ヤコブの人生は、常に後ろ向きの人生であった。彼には、何という神の守りと祝福が常に伴っていたことか。しかし彼自身はそれに気づかなかった。彼は常に過去を省みて神に信頼した。しかしヨセフにはまだ見ぬ未来における神の祝福を確信する賜物が与えられていた。
 そこで、ヤコブとヨセフを比較するとき、ヤコブはイスラエルに、ヨセフはイエス・キリストになぞらえることができる。
 父なる神様。あなたへの永遠の信仰をお与え下さい。

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永遠の愛

創世記 第42章

 ヤコブは、エジプトに食物があると聞いて、食物を買うために彼の10人の息子たちをエジプトへ遣わした。
 神の祝福はヤコブにではなく、エジプトにいるヨセフと共にあったのだ。今やイスラエルは、ヤコブ一人ではなく、一つの民族であり、聖書はそのような意味で彼のことを再びヤコブと呼び直しているのだろう。
 しかし神の祝福は決してヤコブから去ったわけではなく、彼の末息子ヨセフを通して注がれ続けていたのである。神は、イスラエルの数を海の砂のように、空の星のようにするというアブラハムとの約束を遂行するために、強力な社会力を持つエジプトの中で育てようとされたのだ。
 実際、社会性という観念のまったくないイスラエルの民が、単独でそのように増え広がることは不可能であった。神は、決してイスラエルに社会性を学ばせようとはなさらなかった。後に彼らが王を要求したとき、神はそれを歓迎なさらなかった。しかし、その王でさえ、後に来られる王の王イエス・キリストの雛形であったのだ。
 父なる神様。イスラエルへのあなたの永遠の愛を誉め讃えます。

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ファラオの夢

創世記 第41章

 ヨセフは、神から与えられた力によりファラオの夢の解いた。それは、ヨセフによれば神がファラオに幸いを告げられたのであった。
 この世界には、幸いと困難が交代で起こってくる。しかし、神はファラオに困難ではなく、幸いを告げられるのである。「幸い」とは何だろうか。それは、人が神の御手の内にあるということなのである。もちろん、すべての人は神の御手の内にある。しかし、その人が幸いであるためには、それが彼に知らされる必要がある。すなわち幸いの内においても困難の内においても神が変わらずに彼と共におられることである。だから神はヨセフを通して、ファラオに幸いを告げられたのである。
 しかしここに、ファラオよりも幸いな者がいる。「幸いを告げる者」がそれである。なぜなら、彼は告げられる前にすでに幸いを知っているのだから。そして、その幸いな人がヨセフだったのである。
 しかしここに、ヨセフよりも幸いな者がいる。信仰者である。なぜなら彼は、もはや神から何かを告げられる必要はないのだから。神が彼の内に、すでに一度だけ、永遠の幸いを告げられたのだから。
 父なる神様。あなたの前で永遠に幸いな者でいられますように。

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