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2006/02/18

祝福と呪い

創世記 第38章

 神の祝福はこの地上において、ある特定の人を通して注がれることが多い。
 ヨセフがエジプトへ売られてからというもの、ヤコブの家には特筆すべき良いことがなかったばかりか、悪いことが立て続けに起こった。
 そこには、道徳的観念が欠如していた。ユダが婚姻の儀式もなく、カナン人の女に生ませてしまった二人の子エルとオナンが、その悪い行いにより神の怒りを買って死んでしまうということが起こった。
 それを見て恐れたユダは3人目の子シェラを守ろうとして当時の習慣を破り、彼を嫁タマルに与えずにおいたことにより、タマルとの間に子を儲けてしまうということになってしまった。
 これらは、なんという不条理だろうか。なんという皮肉だろうか。しかし、ここで起こっていることこそ、まさに現代の私たちの身の周りのことではないだろうか。
 それにしても、ヤコブはその子らを教育しなかったのだろうか。たぶんそのような観念はなかったのだろう。そもそも彼らには社会性というものが微塵も見受けられない。兄弟でさえも一緒の土地に住むことができなかったのだから。まして、赤の他人が社会を形成するために道徳的な観念が必要だということには思い至らなかったのだろう。神の深遠なるご計画により選ばれ、特別な指名を与えられた民イスラエルがなにゆえにそのような、言わばずさんな状態にあるのか。また、神はなにゆえにそのような、言わば粗末な民、とるに足りない民を選ばれたのかが大きな疑問である。
 しかしもしかしたら本来、「社会」というものは天的な概念、事柄ではないのかもしれない。そもそも天国に「社会」が存在するのだろうか。むしろ「社会」という概念は、ある意味でいつも信仰に対して敵対するような概念であり続けて来たのではないだろうか。天国では、神が人と共に住まれるゆえに、そこには法律も決まりも道徳も倫理も必要ないのではないのか。もしそうなら、そのような世界を社会と呼ぶことができようか。あるいは、そのような世界が「社会」である必要があるだろうか。
 神は、イスラエルという民族社会によってご計画を遂行しようとは決してなさらなかった。神は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そして、イエス・キリストを輩出したイスラエルの民によって、ご自身の計画を成し遂げようとされたのである。
 父なる神様。あなたのご計画にアブラハムの子孫として参与できますように。

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ヨセフ:キリストの形

創世記 第37章

 ヤコブの子らは、イスラエルの12部族の基となった。そしてキリストはその内のユダ族から出られた。ダビデもソロモンもまた歴代の諸王もそうである。
 しかしヨセフは、この系図に属することなく、イスラエル民族の罪のゆえにエジプトで苦しみを受けた。彼は預言者であり、人から見捨てられ、地下の牢屋から復活した。イスラエルの十二部族は、彼を礼拝した。
 それにしてもヨセフは、なぜ兄たちに夢を語ったのだろうか。それは、彼が預言者だったからだ。預言者は、神が語れと言われることを語る。神が語られるとき、彼も語らざるを得ない。そしてそのとき彼が語ったことは、決して彼だけの問題ではなく、彼と兄たちだけの問題でもなく、イスラエル民族全体の将来に関わることであり、私たち一人一人の救いに関わることなのである。
 父なる神様。私たちの人生がヨセフのように患難を祝福に変えられる人生となりますように。

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