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2006/02/04

神の義

創世記 第34章

 イスラエル民族は、他の部族を討ち滅ぼし、その財産を奪うことにより勢力を増していった。それは、偶像礼拝と種々の悪習を行う異邦の民に神の裁きを実施することであり、神からの命令であった。
 ここには、その異邦の民への最初の裁きのことが書かれている。そこは、昔のエルサレムであり、神はこの永遠の都となる場所でまずこの世への裁きを行われたのであった。
 ああしかし、その裁きはなんと不当に見えるものであったことか。その地の王子シケムからの結婚の申し込み、この真実で暖かい気持ちを踏みにじり、虐殺で報いた彼らの仕打ちが神の裁きとして用いられるとは。それはまるであの十字軍のよう狂信と強欲、狂気の入り交じった行為ではなかったのか。
 「我々の妹が遊女のように扱われてもかまわないのですか。」ヤコブの子らのこの言葉がすべてを語っているようだ。彼らの言葉がどのように優しく、配慮と豊かな示唆に富んだものであったとしても、その根底にあるものは、ヤコブの一人娘ディナに行った不品行が意味するものであり、神はその罪の芽を見ておられたのだ。
 もちろんそのような罪は、イスラエルの中にも見いだされるものであるが、神はそのようなこの世の罪を、イスラエルにおいては律法により、また異邦人にあってはイスラエルによって裁きを行われたのであった。
 父なる神様。あなたの義について、もっと教えて下さい。

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エサウとの再会

創世記 第33章

 ヤコブはついに兄エサウと対面した。エサウは兄らしく暖かくヤコブを迎えた。
 エサウはかつてヤコブからひどい仕打ちを受けた。長子の権利と神の祝福をだまし取られたのだった。そんなにひどい仕打ちをしたヤコブをエサウはどうして許すことができたのだろうか。それは、長い年月が彼の怒りを風化させたのと、久しぶりにヤコブに会った懐かしさ、それとエサウ自身の人間的な成長が考えられる。
 しかしもう一つ忘れてはならないものがある。それは、ヤコブと共にいた天の軍勢の圧倒的な迫力である。これに比べれば、最初の三つは補助的な要素にすぎない。エサウの目には見えなかったが、その迫力は彼の存在を圧倒し、その力が守ろうとしている者に慈悲深く応対することを強いたのである。
 私たちは、いまこのことをなおいっそう心に留める必要がある。すなわち、ヤコブのように悪賢く、神のご計画を意識せず、むしろこの世に従ってしまうような私たちの生活に、神は天の軍勢を使わされ、いつも共におらせてくださるのだ。
 父なる神様。あなたが遣わされる天の軍勢に目を開かせてください。

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神の軍勢

創世記 第32章

 ラバンと分かれ、故郷に向かうヤコブに、神の軍勢が出会った。彼らはどこへ何をしに行くところだったのだろうか。彼らは、ヤコブを守りに来たのだった。再びエサウと会わなければならないヤコブに、神が天の軍隊を遣わしたのだった。
 しかしヤコブはそれに気づかなかった。自分の口で、それまで神が一切の危険から彼を救い、大きな祝福を与えて下さったと告白しながら、日常の小さな困難に遭遇すると、まるで神が共におられないかのようにふるまった。
 そんなある夜、主イエスがヤコブに現れて彼と組み打ちをされた。ヤコブにはたくさんの天の軍勢がついていたため、勝負はヤコブが優勢となった。この戦いは、ヤコブと天使の戦いだったのではなく、主イエスと天の軍勢の戦いだったのだ。そしてその目的は、神がヤコブに、背後にいる天の軍勢の存在とその力を思い起こさせるためだったのだが、ヤコブはそれに気づかなかった。
 私たちの信仰生活もヤコブと同じではないだろうか。いやもしかしたらヤコブ以下ではないだろうか。というのはヤコブは、とにかく神の命令を聞き、その通りに忠実に行動しているのだから。
 父なる神様。私たちの倫理観、人生観を越えて、あなたにお従いすることができますように。

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神と共に戦う

創世記 第31章

 ヤコブは、全財産と二人の妻、15人の子供たちを携えてラバンの元から逃げ去った。一般的には、それは良いこととは思われない。しかし、それを指示したのは神であった。
 神の思いは、私たちの思いと異なっている。正しいかどうかは、人を裏切るかどうかということや、隣人に優しくするかどうかということではなく、神に従うかどうかなのである。
 これは一見カルト的な考えのように思えるかもしれない。しかしすべての良いこと、誉れあること、哀れみ、慈悲、愛、謙遜、柔和、その他すべての良いことは、ただ神からのみ発するのであり、どのようなものであれ、私たちから発するものは、それ自体空しいものなのである。
 ヤコブが逃げたことを知ったラバンは、ヤコブを追いかけ、連れ戻そうとした。しかし神がそれを許されなかった。神は、すべての者の神であり、ラバンには、ヤコブを去らせることが命じられたのだった。
 私たちも、それぞれの置かれた境遇の中に奔走しながら現代を生きているが、そべてを支配しているのは神であり、そのお方は、私の敵をも支配し、その武器を役にたたなくし、彼の財産をもって、私たちの必要を満たすことさえされるお方なのである。
 父なる神様、あなたと共に戦う者としてください。

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