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2005/10/29

民族

創世記 第11章

 一人の正しい人ノアから生まれた子孫の中には、正しい人も悪しき人もいた。しかし、彼らは一つの民族であり、一つの言語を持っていた。
 このとき、彼らの思いは地上のことだけになり、人類全部が手を携えて滅亡への道を歩み始める危険性が生じた。そこで神は、一つの政策を行われた。それは、一つの民族をたくさんの民族に分けることである。そのようにして、人類全体が滅びに向かうことをくい止められたのだった。そのようにして、よい民族と悪い民族ができあがって行った。
 これら一連のことは、人間の意識に大きな影響を与えたことだろう。民族の区別が生まれるということは、そこに貿易が生まれ、戦争の可能性も生まれることになる。民族間の違いは、それぞれの民族に自分の民族としてのアイデンティティの確立をもたらした。
 またそれは、自然界にも少なくない影響をもたらした。それぞれの民族間の習慣(例えば食生活)の近いは、その民族が住んでいる土地の自然環境にも影響をもたらした。
 アブラハムたちが暮らしていたカルデヤのウルは、あまり良い環境ではなかったのだろう。3人兄弟の内の一人ハランは、父テラに先だって亡くなってしまった。アブラハムとその兄弟ナホルは、それぞれ妻をめとったが、アブラハムの妻サラは、不妊の女であった。
 そのようなことを経験して、父テラは、その地を捨てることを決心した。ユーフラテス河を遡り、もっと水のきれいな上流へ行こうとしたのかもしれない。そのようにして最終的には、カナンという最高の土地にたどり着こうとしたのだった。
 彼らは、河をかなり遡り、ハランというところにきてそこに住み着いた。そこは、カルデヤのウルに比べると環境はかなり良かったのだろう。もう再びそこを出て、カナンに向かう必要はないかのように思われた。しかし、父テラがそこで亡くなってしまった。アブラハムたちには、父テラの財産が残された。それは、父テラがその一生をかけて築いてきたものであった。父テラは、家長として精一杯家族を守り、家族全体の幸福のためにひたすら働いてきた。父テラの生き様自体がアブラハムたちにとって、大きな教訓であり、財産でもあった。
 残されたアブラハムたちは、父テラが築いてきた財産、父テラから教わったさまざまな教訓、最後に行き当てたすばらしい土地、それらを父テラから受け継ぎ、その地を父テラの遺産として、そこに永久に住み着き、そこで繁栄しようと思ったのだろう。
 父なる神様。高い高いあなたの御思いを教えてください。

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この世界には、なぜ、多くの悲しいできごとが起こるのか

 この世界には、明らかにたくさんの悲しいできごとが毎日のように起こっている。いったいなぜなのだろうか。
 「悲しいできごとは、神によって引き起こされている。」と私は考える。あるいは、この表現が不適切ならば、次のように言い換えよう。すなわち「悲しいできごとが起こることは、神に容認されている」と。(ヨブ記第2章6節参照)
 「悲しいできごと」とは、いったい何だろうか。それは、人生の目標を実現不可能にしてしまうようなことと言えるだろう。このできごとの前には、彼の人生のすべての意味が消え失せ、彼が生まれてきた意味さえもないかのように思われてくる。
 しかしここで再び、彼の生まれてきた目的とは何だろうか。それは、ただ一つ「神を知ること」である。(前論参照)
 もしそうなら、彼が体験する「悲しいできごと」が、彼が神を知ることを妨げるかということが問われる必要がある。否、否、返ってその悲しいできごとは、この世的な快楽や虚栄等から彼を解放し、彼がただ神だけに望みを置き、神を崇めるように仕向けないだろうか。
 父なる神さま。悲しいできごとに遭遇した人たちが、そのことによって、あなたを知るようになりますように。

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人はなぜ生きるのか

 人が生きる目的とは、いったい何だろうか。
 しかしもし彼が、自分の生きる目的を見いだしたとしても、その後彼がその目的に向かって進むかどうかは、実は疑わしいのではないだろうか。彼には自由意志があるからである。むしろ彼は、自分が見い出した目的自身によって、恐ろしく不自由な存在になってしまう可能性が高いのではないだろうか。そこで、私はあえてこう言いたい。
 この世界が造られた目的が存在しない以上(前論参照)、人が生きる目的もまた存在しないと。
 しかし、これは明らかに間違った洞察のように見える。というのは、もし人に生きる目的がないならば、人は死ぬしかないように思われるからだ。
 しかしここに、もう一つの可能性がある。それは、世界が造られた当初は生きる目的がなかったが、その後、いつからかそれが生じたということだ。もしそうなら、いつからなのだろうか。それは、「死」がこの世界に入ってきてからである。
 もし死が存在しないならば、生きる目的もまたないに違いない。「生きない」という可能性がないからだ。この場合「目的がない」ということそのものは、それほど悪いこととも思われない。例えば、人が一生一代の大きな恋をしたとしよう。その恋には、決して理由や目的などないだろうから。むしろその恋自体が彼の目的なのだ。同じように、主イエス・キリストの愛にも、別の目的があるわけではない。あなたを愛すること自体が主イエスの目的なのだ。
 そのように「生きる目的」は、世界が造られた当初は、そのこと自体であり、他にはなかった。しかし、人が罪を犯し、神から分離し、死ぬべき存在となったとき、「生きる目的」もまた生まれたのだ。しかしその目的がもし、何か具体的なものであったなら、上で述べたように、そのことによって彼の一生は、牢獄と化してしまうだろう。だから彼が目的を見いだした後にも自由で、無限の喜びの内にあるためには、彼にとって再び「生きること自体」が目的とならなければならない。
 これらのことから「生きる目的」は明らかである。つまり彼が神を知り、そのことにより、彼が永遠に生きる存在、すなわち死なない存在となることである。
 そうなったとき、彼の生きる目的は再び消え失せ、彼には「生きること自体」が目的となるのだ。
 父なる神さま。私に主イエス・キリストを信じる信仰による「永遠の命」をお与えください。

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系図

創世記 第10章

 この世界の人々は、ノアから生まれて全地に広がって行った。ノアという一人の人から、全世界の人々が生まれ分かれてきたのである。ここで問題は、ノアの中にも悪い遺伝子があったということだ。それは、罪の芽とも言えるかもしれない。罪というものは、精神的な面ばかりでなく、肉体的な面にも悪い影響を与える。その悪い因子が、近親結婚により、すぐ次の代に表面化して来ることになった。
 ノアという、神の前に正しい人から、多くの悪しき人たちが誕生し、それが悪しき民族となって行ったのだった。罪とは、それほど恐ろしいものなだろう。
 ニムロデは、勇士として称えられたが、それは、人々の上に君臨することによったのであり、この時代にすでに、価値観の大転換が起こり、ものごとの優先順位が逆転し、その結果、人々は神から離れて自分の幸福や自己実現を追求するようになり、それに成功した人が「勇者」と呼ばれるようになって行ったのだった。
 現在の私たちの価値観や社会通念の基本的なものが、この時代にできあがったと思われる。それは、聖書の中には、民族の人格化として取り扱われている。神は、預言者を通して、この種々の民族の人格で表象される倒錯した価値観を引き合いに出し、選民イスラエルとの関係により、それを裁いておられるのであり、それはまた、人類全体への裁きであり、また同時に、サタンへの裁きでもあるのだ。
 そして、その裁きは、主イエス・キリストの十字架により、最終的な決着を見るのである。
 父なる神様。私の心に、あなたを崇めるための、祭壇を築き直してください。

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創世記 第9章

 神は、アダムと結ぼうとされていた永遠の命の契約の代わりに、すべての生きているものたちと新しい一つの契約を結んだ。それは、神の一方的な恵みの契約であり、イエス・キリストを予表するものであった。
 神はそのために、二つの虹を用意された。一つは神のために、もう一つは私たちのために。神は、その永遠の契約を思い起こされるときには、私たちにもそれを見せてくださるのだ。ただ、それは雨がやんで、神が怒りを鎮められた後にである。
 大雨の前に神が見られる虹とは、いったい何だろか。そう、それはきっとご自身の御子、主イエス・キリストに違いない。キリストは、アブラハムが生まれる前からおられるのだから。
 父なる神さま。あなたの永遠の救いのご計画を感謝いたします。

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人の思い

創世記 第8章

 40日に亘る大雨がもたらした大洪水は、容易に解消されなかった。神が水の面に風を吹き付けられてからも水は、かなり長い間地の面にあった。
 ノアは、耐えきれずに箱船から烏を放ってみた。また暫くして彼は、鳩を放ってみた。いずれの結果も、否定的なものであった。彼は3度目に再び鳩を放った。その結果、初めて彼は地から水が引いたのを知った。
 ノアは、神が命じるまで、決して箱船から出ようとはしなかった。彼は神と共に歩んだ人であった。しかし、彼の心は、神と完全に一つではなかった。「神と共に歩むこと」と「神と心を一つにする」ことは、同じではない。ある期間、神と共に歩むことは可能だろう。しかしそれは、時という試練の中を通される。その試練は、無限に続く可能性を持っている。極端には、時の試練は、信仰者が罪を犯すまで続くことになる。つまり、時の試練の中にいる者は、無限の前に、必然的に屈せざるを得ない。彼を罪から救うのは、彼の人生が無限ではないことだけだ。彼がその有限な人生の間だけ罪を犯さなければ、彼は神と共に歩んだことになる。
 しかしキリストは、永遠の従順を持っておられた。彼の前には、時は何の力も持たない。永遠の試練も彼にとっては、一瞬の従順と変わりはない。彼は、永遠から永遠まで神と心を一つにしておられる。彼はもはや、時間を越えてしまっているのだ。そしてキリストは、彼を信じ従う者にも、この従順を与えられるのだ。
 主イエスさま。永遠の従順を私にもお与えください。

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