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2005/09/22

殺人

創世記 第4章

 アダムが犯した不従順の罪が、なぜカインによる殺人まで引き起こすことになったのか。その理由は、聖書には詳しく書かれてはいない。
 一つ書かれていることがあるとすれば、アダム夫婦がエデンから追い出されたことだろう。エデンは、単なる楽園ではない。それは全地の都となるべき場所であった。だから、もしあのまま二人がエデンに留まっていたとしたら、事態は一変していたに違いない。どう違っていたかというと、まず、神は彼らがこの世界を治めるための様々な知識を与えられただろう。また、「二人は一体となる」とあるところから、彼らが一体となるための知識を授けられたに違いない。つまり夫婦の究極的な関係の奥義である。これを知ったなら、エバはアダムの真の助け手になったに違いない。しかし、その前にエデンを追い出されてしまったため、後にはアブラハムの妻でさえ、彼を悩ますようになってしまった。そのように、この世界は、完成前の状態で動き出してしまったのだ。
 だから、カインが殺人を犯すのは、時間の問題だったと言えよう。そして、この世界も同じ状態で動いているので、凶悪犯罪が起こったりするのだ。この呪いから開放されるには、キリストの血による他はないのだ。
 父なる神さま。私にキリストにより、完全な知識を教えてください。

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断絶

創世記 第3章

 アダムは、神の命令に背き、善悪の木の実を食べてしまった。しかしそれさえも、実はアダムの罪の結果に過ぎない。アダムの本当の罪は、神の命令よりも妻の意見を採用したことにある。そしてエバの罪は、自分個人の考えで判断し行動したことにある。また、へびの罪は、彼の本性なのだが、エバを欺いたことにある。
 ある意味では、すべては起こるべくして起こった。エバは、夫を助けるために、彼女の有限な判断力の制限内で行動に移る必要があっただろう。またアダムは、神から与えられた伴侶に全幅の信頼を寄せていた。いったい、罪が犯されることは、防げたのだろうか。
 私は思う。罪が犯されることは、防げなかった。しかしだからと言って、人間に責任がないということではない。彼は、自分の意志で神の命令を破ったのだから。それでは、なぜ彼の意志は、罪を犯すことを欲したのか、賢くなろうと欲したのであった。何のために、それは神のためでもあったかもしれないが、自分のためでもあったのだ。
 「賢くなろうとすること」これこそ罪の根元に他ならない。なぜなら、賢い者と言えば、それは「へび」であると書かれているから。
 神に従う者は、賢くなろうとしてはならないのだ。
 父なる神さま。あなたの命令に、ただ然り然り、否否により、従うことができますように。

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人間

創世記 第2章

 神はエデンの園に、まず人間アダムを造って置かれた。そして、神は正にアダムの為だけに全世界を創造し、それを彼に与えようとされたのだ。このアダムとは、キリストの原型である。
 神はアダムが好む植物を園に生えさせられ、それをアダムに与え、彼に管理を委ねた。神はそれらを観察して、アダムに助けが必要であると気づかれ、家畜たちを造られて彼の元に連れて来られた。しかしアダムに必要なのは、実は労働力ではなく、コンサルタントであった。
 神は、アダムのように考えるもう一人の人間エバを創造し、彼に与えられたのだった。
 父なる神さま。あなたの御思いは、私たちの思いを遙かに越えています。

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創造論

創世記 第1章

 神は6日で宇宙を創造された。しかも約6000年前に。これに対して科学は、様々な証拠を挙げて、世界が何十億年も前に生まれ、人類もアメーバから進化してきたと主張する。しかし、この二つは、どちらかが正しくどちらかが間違っているというものではない。
 聖書を良く読めば分かるが、神は完成された世界を造られたのであり、中途半端なものを造られたのではなかった。端的に言うと神は、進化論者が主張する進化後の世界を神は創造されたのだ。そして聖書には、今後も進化が起こるとも起こらないとも書かれていない。
 だから、進化の有る無しで、神の存在性を議論することはできない。まず神の存在があって、その後に創造論が続くのだ。
 父なる神さま。かく思考しているこの私を創造されたのはあなたです。

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分裂

ローマ人への手紙 第16章

 いつの世にも教会の中に分裂は起こってきた。それは当初、例えば教会運営や聖書解釈に関する若干の改良という形を取ることがある。
 それはあくまで改良であり、一見誰の目にも良いものに映る。しかし、それを実際に導入しようとすると、何カ所か実状に合わないところが発見される。
 そこで彼はその修正に掛かる。そして新たにいくつかの改良を追加する。しかしそれはもはや最前の策ではないことが彼にも薄々理解されてくる。
 誰かが異議を唱える。彼が応答する。他の人が彼を弁護する。更なる新しい案が提出される。かくしてして議論は絶対的なものから相対的なものへとシフトして行くのだ。
 そしてそのとき、改良案を提出した彼の意図が明らかになってくる。それは正に分裂を引き起こすためであった。
 主イエスさま。ただあなたの教えに照らして、然りと否を表明させてください。

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