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2005/09/17

イスラエルの救い

ローマ人への手紙 第11章

 異邦人の救いが完成した後に、今度はイスラエル人の救いが予定されている、とパウロは言う。神は、愛する選民の救いよりも野蛮人のような異邦人の救いを優先されるのだ。
 それにしてもその実現までに福音を信じずに死んだイスラエル人はどうなるのだろうか。パウロの論理は、イスラエル全体をまるで一人の人のように見ているかのようだ。かつての預言者たちもそのように民族を人格視していたようだが。
 このように宣教というものは、まことに多様なものだと思う。それは一人一人の決断が前提となっているが、それはまた民族に対しても宣べ伝えられているのである。
 そして、その民族がある時点で福音を受け入れることがその民族みんな、すでに死んだ人をも含めて、その民族全体の運命の向上に貢献することのように思われる。
 主イエスさま。パウロが語っていることの真の意味を教えてください。

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福音

ローマ人への手紙 第10章

 キリスト教は、人が救われるために一連のステップを提供している。すなわち、宣べ伝えられること、それに耳を傾けること、信じること、呼び求めることである。
 しかし、これらがすべて人間の行うことであり、かつそれが時間と場所の制約の中で起こることであることから、そこに往々にして不平等が生じることになる。
 平等であるお方からの、本来平等であるべき福音が、なぜその配布において著しい不平等の中にあるように見えるのか。
 しかし、福音は本当に平等で有り得るのだろうか。言い換えれば、すべての人が福音を欲しているだろうか。つまりすべての人が神を第一にしようと欲しているだろうか。ここに至ると、もはや福音が万民のものではないことが理解されてくる。むしろ福音は、自分を捨て、神を第一として生きようと欲する、ごく一部の人々のものではないのか。
 しかし再び、そのような状態は、かつての律法時代のことであり、もはやそれは過ぎ去ったのではないか。多くの人が神を求めるようになる日が今近づいているのではないか。闇は過ぎ去り、真の光が世に輝いているのだから。
 主イエスさま。世の人々が、真のあなたの御姿を知り、真の愛を体験しますように。

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