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2005/09/09

信仰

ローマ人への手紙 第4章

 アブラハムが神を信じたのは、神がどのようなお方かを知っていたからだ。神が彼にご自身を啓示されたのである。人は自分の知っているものを知っている範囲で信じるのだ。だから、誰を知るかということが肝心なことになる。
 大きい対象を知っている人は、大きい信仰を持つことができ、小さい対象を知っている人は、小さい信仰しか持つことができないのである。
 しかしここで、知識として知った対象が自分よりも大きい場合、そのお方に全面的に自分を明け渡すということがなされなければならない。しかも、自分の認識までもである。アブラハムはこれを行い、神は死人を蘇らせることができると信じたのである。
 そこで、アブラハムの信仰を義と認めたお方は、またご自身でそのことを保証されたのである。
 主イエスさま。私の信仰のすべては、あなたに掛かっています。

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律法と信仰

ローマ人への手紙 第3章

 律法と信仰の違いは何だろうか。
 律法は、紙に書き記されるが、信仰は、人の心の中にある。しかしその目指すところは、どちらも同じなのだ。
 律法学者等は、律法の意味するところを明確にしようとして、状況の変化を追ってたくさんの事例を補って行ったのだろう。そのようにして、たくさんの付加的な決まり事が追加され、律法はきわめて複雑になり、一般庶民にはなじみがない、専門家だけのもののようになってしまった。
 いったい何が間違っていたのだろうか。律法の運用を管理していた人間の心が悪かったのである。律法は、心の王国を治めるためのものなのだが、人の心には、自我が住んでいて、律法を乱用しようとするのである。この自我という暴君がいる限り、心に正義は実現されない。
 そこで信仰は、この自我が死に、心の王国が完全に神の支配に服するために働くのだ。信仰とは、そもそも何だろうか。それは、自分を無にすることにより、主イエスと同化することである。ただむやみに信じることは、信仰ではなく、思い込みに過ぎない。
 信仰は、義なる創造主の存在に掛かっている。そのお方との、聖霊によるたゆみないコミュニケーションによるのだ。
 主イエスさま。聖霊による揺るぎない信仰をお与えください。

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