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2005/09/01

福音への姿勢

使徒行伝 第26章

 パウロの弁明は、彼自身の霊的な体験を赤裸々に語ったものであり、聞く者の理解を越えていた。
 フェストは、パウロの証言を聞き、その理路整然とした内容に感服しながらも、その内容を事実として受け入れることはできずに大声で言った。「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている。」
 福音とは、そういうものだ。人は福音を聞きながら、そのままの自分でい続けることはできない。それは、人間存在を根本から変革し、聞く者を神の所有物とするのだ。これに絶えられない者は、思わず苦し紛れに叫ばざるを得ない。「おまえは、少し説いただけで私をクリスチャンにしようとしている」と。
 しかし、彼が聞くことが多かろうと少なかろうと、彼には今聞いた福音に対して、それを受け入れるか否かの決断が強制されているのであり、曖昧な態度は許されていないのだ。だから、アグリッパ王は、この尊い福音を足蹴にし、自らに裁きを招く結果となったのだ。
 主イエスさま。私が誰の前でも福音を誇り、この地に裁きをもたらす者でありますように。

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裁き

使徒行伝 第25章

 人を裁くことは、実は自分の立場を表明することであり、従ってそれは結果的には、自分を裁くことになる。主イエスを死に追いやった人々は、それによって実は、自分の身に裁きを招いたのであった。
 パウロを訴えていた人々は、それによって自らの信仰を言い表し、神に敵対する者となった。しかし彼らは、伝統的な信仰に熱心のあまりそのようになったのであり、それも神のご計画だったのである。
 しかし、当時の統治者たちは、彼らとは異なる対応をした。フェストの前地方総督ペリクスは、パウロの話を聞いて不安を感じながらも、ユダヤ人の関心を買おうとして彼を留置し続けた。またその後総督となったフェストは、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くが良い。」と事務的な扱いをした。
 統治者やその他名の通った人々は、自分の意見というものを持っていない。彼らは裁きはするが、自分の意志で裁くのではない。彼は、いわば調整役に過ぎない。しかしそのことで彼が裁きから免れているかというと、決してそうではない。彼は、神の前には存在していないようなものなのだ。そして、神の前に存在していないものは、すでに裁かれているのである。というのは、神の前に存在しないことは、許されないことだからである。
 主イエスさま。あなたの前に、存在し、あなたを愛し、あなたから愛され続けることを心から願います。

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