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2005/08/30

投獄

使徒行伝 第24章

 パウロはローマへの途上で、地方の総督ペリクスの元に投獄されたまま二カ年が経過した。
 この牢獄の中で、彼は新約聖書に収録されている多くの手紙を書いたのだろう。神は、パウロの牢獄生活における必要を満たしてくださった。ペリクスが、彼を寛大に取扱い、友人らが世話をするのを妨げなかったからである。
 パウロにとってこの牢獄は、ローマへの出陣前のしばしの安らぎの場所でさえあったのだろう。主の召命に応え、信じるままに歩み、その結果様々な困難に遭遇し、主の導きによりそれらを乗り越えてきた彼にとって、この牢獄以上に彼の名誉にふさわしい場所はなかったのだ。
 主イエスさま。あなたの大きな配慮を感謝します。

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確信

使徒行伝 第23章

 エルサレムで捕らえられ、裁判にかけられたパウロには、2つの確信があっただろう。一つは、「私はローマまで行く。」という思いであり、もう一つは、「私はローマに行かなくてはならない。」との思いである。
 前者の場合は、彼の心には平安があるが、後者の場合には平安がない。自分の思いが先行しているからである。
 パウロは、自分に鞭を加えようとしていた兵卒に「ローマ人たる者を、裁判にもかけずに鞭打って良いのか。」と言った。これは余裕のある行動ともとれるし、せっぱ詰まった行動ともとれる。信仰者の態度には常にその両面があるようにも思える。
 彼はまた、自分を打てと命じた大祭司に向かって裁きの宣告をしたが、その言葉は、効を奏さなかった。
 主は彼に、「しっかりせよ。」と声を掛けられた。「あなたはローマでも、私のことを証ししなければならない。」
 パウロは、かつて彼自身が言ったように、必ずローマに行かなければならないのだ。
 主イエスさま。私に与えられた、あなたからの言葉を信じ続けることができますように。

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群衆

使徒行伝 第22章

 パウロの必死の弁明に対して、群衆は聞く耳を持っていなかった。群衆というものは一つの人格を持つ。つまりそれは、一つの価値観によって判断を下すことをする。しかしこの価値基準は、流動的であると共に柔軟性に乏しく、往々にして惰性に負うところが多い。
 このときも彼らは、パウロは危険人物だという先入観に支配されていた。いったい群衆のうち何人がパウロのことを少しでも知っていただろうか。つまり、彼らは何か大きな力というか、彼らを包み込む流れのようなものに支配されていたのだ。
 この群衆を包み込む大きな流れを支配する者は、その時代を支配する者でもある。ときには、カリスマ的な人物がそれに成ることがある。しかし彼もまた、より大きな力に頼っているのだ。それは、霊的な力である。悪しき霊の力との破滅的な契約が彼にカリスマを与えるのだ。
 しかし神の力は、これとは全く異なる働き方をする。それは一人一人に直接的に働くのだ。神は、パウロの心に働いて、福音を宣べ伝えるための働きに彼を召した。そして次に、彼から福音を聞く者に、再び個人的に臨まれるのである。神が人々を群衆として扱われることは決してない。いつも一人一人の自由意志に対して神は決断を迫られるのである。
 主イエスさま。私の従順が永遠の決断でありますように。

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苦難

使徒行伝 第21章

 パウロの一行がエルサレムへ帰る途中で様々な人たちが、彼を苦難が待ち受けていることを預言した。それなのに彼は、なぜあえてエルサレムへ行ったのか。これまでの宣教と今後のローマ行きを報告するためだったのだろうか。
 しかし、彼がひとたびエルサレムへ入るや否や、宣教はそれまでとはまったく異なる様相を帯びてきた。すなわち、パウロの宣教は、一般人から隔離された、当時の権力者たちへ向けたものとなってきたのだ。
 しかし、いつの時代にも権力者が福音を信じることはなかった。だから、そのような宣教は、一見無駄のように思われる。パウロには、果たして自分のしようとしていることが見えていたのだろうか。
 たぶん彼には、あまり先を見てはいなかったのだろう。具体的には、最終的にローマでキリストを宣べ伝えることになるが、その前にエルサレムへも行かなければならないこと、そしてそこで彼を苦難が待ち受けていることくらいしか理解していなかったのだろう。
 しかし、彼は一番大事な事柄を理解していた。エルサレムでの苦難がどのように危険なものであっても、彼は最終的に必ずローマへ行くということ、そしてそれらが主の御心だということである。
 神の国の戦略は、この世のそれとはかなり異なっている。この後の章を読むと、彼は囚人としてローマへ護送されることになる。しかしもし彼が一旦エルサレムに戻らずに、そのままローマ宣教に向かったならば、何か他の方法に依るしかなかっただろう。
 神のご計画は何とダイナミックなものだろうか。それは、幾重にも備えられ、レールが引かれている。私たちは、自分の意志で道を選択するが、神のご計画は不変であり、神の私たちへの愛も変わらないのである。
 主イエスさま。あなたのご計画の中を歩むことができますように。

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