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2005/08/25

主への熱心

使徒行伝 第20章

 パウロは、聖霊によってローマ行きを示されたが、その前にエルサレムに戻る必要があった。異邦人伝道、とりわけローマ伝道は、支配国への宣教であり、エルサレムのクリスチャンの群れにもそれは多大な影響を与えるに違いない。パウロは、大いに身の危険を感じつつも、一旦エルサレムに戻る決心をした。
 パウロの人生を見るとき、そのすべてが神に従ったものだったのだろうかと疑いたくなる。それは、被らなくても良いような災難に会っているように思えるからである。前章のエペソにおける大騒動もそうである。彼が他の弟子たちと一緒に出発していればそのようなことにはならなかったと思われる。
 そして今度も、エルサレムへ報告と挨拶に帰ることが、本当に神の御心だったのかということは、聖書からは読みとれないようだ。そして、彼がエルサレムに戻らずに、そのままローマに向かっていれば、大きな迫害に会わずに済んだように思われる。
 パウロの博学や野心的な心が、彼にそのような行動をとらせたのだろうか。
 このように考えると、パウロのこれからのローマまでの行程の中にも、たくさんの苦難が待ち受けており、それらすべてを神がパウロに与えようとされていたものなのかどうか疑わしくも思えてくる。
 しかし、それらは聖霊が一貫してパウロに告げていたことだと彼は自ら言っている。そして、主ご自身も、「彼が私のためにどんなに苦しまなければならないかを彼に知らせよう」と言っておられるのだ。
 重要なのは、災難に会わずにスムーズに自分の使命を果たすことではないのかもしれない。自分の信じるところに従って、最後まで神への愛により、主のために働き通すことこそが大切なことなのだろう。
 主イエスさま。順境にあっても、逆境にあっても、とにかく最後まで、変わらずにあなたに従い通すことができますように。

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順境と逆境

使徒行伝 第19章

 神はアジヤにおいて、パウロの手により、異常とも言える力ある業を行われ、弟子たちを増やし、聖霊を授け、魔術からの解放を行われた。
 パウロにとっては、自分の宣教の実を直に収穫し、神の大いなる御力を目の当たりにする心弾む体験であったのだろう。神が聖霊により、ローマ宣教を示された後にも、なお彼はアジヤに留まり続けた。ローマはパウロの故郷であった。宣教者は、郷里で働くことをきらう傾向にある。主イエスもナザレではあまり力ある業をすることができなかった。そこには、大胆な宣教の邪魔をする余計な人間関係等々がたくさん残っているから。
 しかし、神はパウロが直ちにローマへ向かうことを望んでおられたのではなかったのだろうか。一人アジヤに残ったパウロを待ち受けていたのは、そこの守護神アルテミスを巡る大混乱であった。
 神は、ご自分の愛する者をときに非情にきびしく取り扱われる。それは往々にして、次に待っている大いなるご計画への準備でもあるのだろう。
 それにしても、パウロはなぜローマへ行くことになるのだろうか。一度出てきてしまった故郷へ。
 聖書には、人がその出てきたところへ戻って行くというモチーフが繰り返し出てくる。イスラエルの民は、カナンからエジプトに移住し、再びそこに戻って行った。主イエスは、天から来られ、御業を成し終えてそこへ戻って行かれた。その他にも、バビロン捕収、ヤコブの生涯、放蕩息子等、様々な記事が、「元出てきたところへ戻る」というモチーフを継承している。
 しかし、この再び戻る場合に、戻るもの自身は、元の者のままではない。彼はむしろ新しく変えられた者なのだ。パウロは、元は単なる博学な青年であっただろうが、主イエスと出会って人生を変えられ、宣教という新しい使命を持ってローマへ戻って行くのであった。
 主イエスさま。私が福音を持って、自分の私生活に回帰するこtができますように。

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福音宣教

使徒行伝 第18章

「この町には、わたしの民が大ぜいいる。」

 福音は、神の民に対して宣べ伝えられる。神の民以外に宣べ伝えてもそれは無駄なことなのだ。しかし、誰が神の民なのかは、明らかにされていない。そこに福音宣教の動機がある。パウロは、ギリシヤ人の説得につとめ、彼らがどうしても聞こうとしないので、自分の上着を振り払って彼らを後にした。
 最終的に信じるにしても、どのような過程の末なのか、誰にも分からない。神は、どうしてそれを宣教者たちに知らせられないのだろうか。信じる人たちがあらかじめ決められており、そして私たちが宣べ伝えるべきならば、だれが救われるべき人かを神が私たちに知らせられる方が効率が良いと思われる。
 しかし神が求めておられるのは、宣教の効率性ではないのだろう。それでは何だろうか。聖書からは、様々なことを読みとることができる。
 まず、神は宣教を通じて私たちを成長させ、主イエスの御姿に近づけたいと思われるのである。
 次に、神はすべての人を等しく愛し通そうとされるのだ。それならどうして、すべての人を救おうとされないのか。神はすべての人を救おうとされておられる。しかし、神がすべての人を救おうとされるにも関わらず、救いから落ちてしまう人が必然的に出てくる結果になるのだ。これは、神が私たちに与えられた自由意志と関係することであり、神だけの問題ではないのだろう。
 三つ目に、神と私たの間の関係である。宣教者が神に帰依しているとは言え、彼の思いの中には完全に神に従い得ないところが残っている。彼は、まだ原罪を抱えたまま生きているのである。キリストの購いと聖霊により、その影響は弱められてはいるが、それが完全になくなってしまったのではない。そうなるのは来るべき新しい世においてなのである。
 そのような私たちと神がツーカーの関係になることはできないのだ。それは私たちの破滅を意味するかもしれない。神は天におられ、私たちは地に棲んでいるからである。
 主イエスさま。私がこの有限な可能性の中で、あなたに従い通すことができますように。

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福音の言葉

使徒行伝 第17章

「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「このことについては、いずれまた聞くことにする」といった。」

 宣教者の言葉は、そのすべてが、聞く者に受け入れられるとは限らない。彼が語る御言葉には、慰めと裁き、平安と緊張、喜びと悲しみの両面の要素が常にあるからである。これにより、福音を聞く者が、本当に神に帰依しているかが明らかになる。
 しかし、ともすると今日の教会は、曖昧な福音、つまり耳障りの良い招きの言葉ばかり語り、罪や裁きについては、一般的な表現に終始してしまいがちのように見える。そこで今日の教会には、まるでギリシャ人のように御言葉の遊びを楽しんでいるかのような人が結構な数いたりする。
 しかし教会がひとたび御言葉をはっきり、文字通り語るや否や、そこに戦いが始まってくる。教会は、仲良しクラブや聖書研究会ではなくなり、神の軍隊のようになるだろう。しかもそこには、喜び、楽しみ、平安、永遠の命がいつもあることになる。ダビデが詠ったように。
 主イエスさま。天から来る、あなたの平安を求めることができますように。

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