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2005/08/23

霊的な戦い

使徒行伝 第16章

 宣教は、神の使いと共に展開していく戦いなのだろう。ヨハネの黙示録には、そのころ7つの教会にそれぞれみ使いが立てられていたことが記されている。
 このとき宣教者は、旅行の道筋について、御霊の指示を受けながら進んだ。それは、天上におけるみ使いたちの配置に関係していたのかもしれない。み使いの数には限りがあるからだ。
 宣教者の旅路に影響を与えるもう一つのものは、悪の力との遭遇である。パウロは占いの霊と遭遇し、戦いを挑んでしまった。そして、大変なことに巻き込まれてしまったのだった。
 悪の力と戦うとき、私たちも様々な傷を負わざるを得ないことがある。しかし神の言葉は、それにも関わらず進んで行くのである。
 大切なのは、常に前進をあきらめないことと、恐れずに進み続けることだ。そのとき神は、信じる者たちと共に働いて、すべてを益としてくださるのだ。
 主イエスさま。私から恐れを取り去ってください。

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論争

使徒行伝 第15章

 教会は聖霊によって導かれている。しかし、往々にして論争はわき起こる。神はそれを悲しんで、壁に生じたシミのように見ておられるのだろうか。いや、神は私たちの弱さをもご存知であり、そのような私たちと共に、宣教の働きを始められたのだ。
 論争は、どこから生じるのか。それは、宣教の働きに、私たち人間の思いを持ち込むときに発生してくる。たとえ使徒であろうと、その生活のすべてが主の御霊によって動いているわけではない。そこに悪魔がつけ込むすきがある。
 ユダヤから来た人々は、過去にイスラエルの信仰が揺らいだことにより被った様々な災いを思いだし、そのころの異邦人伝道に一抹の不安を感じていた。このままでは、律法が軽んじられてしまうのではないかと。そして、割礼の遵守を提起したのだった。
 またパウロは、今は異邦人への福音宣教において重要な時期と確信し、主への忠実さにおいて少しでも問題がある者を宣教活動に参加させることは、後々になって余計な混乱を呼び込むことにつながるとの判断をした。パウロは、元役人だったので、そのころに手を焼いた様々な経験から、最良の判断をしたのだろう。
 これらのどちらも、福音宣教のためを思った良い判断であり、それ自体、攻められるところはない。それでは、論争や分裂はどこから生まれて来るのだろうか。それは、彼らの間の意見の相違から生まれるのだ。その調整をしようとしても、それらの意見の背景がみな異なっているので、調整しようがないのだ。
 人間は元々、言葉の通じ合わない存在なのだ。それは、言葉の背景がみな異なっているからだ。しかし神にあっては、すべては矛盾無く一致する。神にあっては、解釈の違いというものはないのだ。
 論争は避けられない。しかし使徒たちは、論争を恐れずに進んで行った。これこそが大切なことだ。論争しないことが大切なのではない。たゆまずに進むことこそが大切なのだ。
 主イエスさま。平安のためでもなく、正義のためでもなく、喜びや感動のためでもなく、ただあなたのために進んで行くことができますように。

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