« 2005年8月18日 | トップページ | 2005年8月23日 »

2005/08/19

妨害

使徒行伝 第14章

「こう言って、ふたりは、やっとのことで群衆が自分たちに犠牲を捧げるのを思い止まらせた。」

 神の働きを妨害するものには二種類ある。ひとつは、福音を信じなかったユダヤ人たちのように、働き自体の邪魔をするものであり、もうひとつはパウロたちに犠牲を捧げようとした人々のように、人間的な思いで協力しようとするものである。
 通常、前者の方が警戒されるのだが、本当に警戒すべきは、実は後者の方なのだろう。パウロの対応を見ればそれが分かる。
 彼は、自分たちに犠牲を捧げようとする人々を自分の衣を裂いて制止したのだった。しかし他方、自分を石で打った人々には、抵抗も復習もすることなく、まるで何事もなかったかのように再び町に入って行ったのであった。
 主イエスさま。私が聖なる戦いのための、備えをすることができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

予定

使徒行伝 第13章

「そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。」

 この世界には、永遠の命にあずかるように定められている者と、そうでない者がいる。
 これは、あまりにも非情な考えに見える。しかし、もしこの聖書の表現を疑うならば、それは聖書全体の無謬性をも疑うこととなり、その人はもはや、聖書を全面的に信頼することはできなくなる。そして、どの聖句であっても、その信憑性を自分自身で判断せざるを得なくなる。つまり、その人にとって聖書は、信仰の対象ではなくなってしまい、単なる研究資料と化してしまうのだ。
 だから聖書を信じるためには、そのすべての聖句を文字通り信じなければならないのだ。
 しかし、この聖書の箇所を真理とするとき、私たちは、途方もない不安の中に投げ込まれるように思える。もし自分が救われるべく定められていなかったらどうしよう、というわけだ。
 それに対してある人は、「不安に思うのは、滅びるようには定められていない証拠だ。滅びる者は、自分が滅びることすら知らないのだ。」と言う。しかし、本当のところはよく分からない。
 多くの人が、この「神の予定」と言われる教理に躓いたり疑問を呈したりしてきた。しかし永遠の視点から見た場合、「滅びに予定されている人がいる」ということと「滅びる人がいる」ということ、つまり「全部の人が救われるのではない」ということは、実は同じことなのだ。そして、滅びる人が一人もいないのなら、また私たちが伝道しなければならない理由もない。
 かつて「エホバの証人」の創始者ラッセルは、「永遠の刑罰」の教理の恐ろしさに反抗して、「永遠の滅びとは、消えて無くなってしまうことだ」という新しい教理を作った。
 しかし、この物質界の存在でさえ、消えて無くなることはけっしてない。まして、霊的な世界ではなおさら永遠に存在し続けるに違いないではないか。「消えて無くなる」とは、何という狂騒だろうか。
 ほんの一行でも聖書を疑うということは、このように大それたことなのである。
 主イエスさま。聖書をすべて信じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

天使

使徒行伝 第12章

 牢獄に16人の兵卒と2重の鎖でつながれていたペテロを救い出せる者は、神の他にはいなかった。そして正に天使が彼をそこから救い出したのだった。
 天使は、神の命令を整然と実行していった。そこには、私たちがわくわくするような感動はないかのようにさえ見える。そしてペテロを救い出すと、何も言わずに天に帰って行った。
 ペテロは、その一部始終を自ら体験
しながら、まるで幻を見ているようにしか思えなかった。
 天使の心は不動である。ただ神の御心だけを行い、けっしてそれることはない。彼等にはたぶん、信仰の感動というものは存在しないのだと思う。そして極端なことを言えば、神に完全に従った人ペテロにもそれはなかったのだ。彼は、自分の無事であることと、神によって救い出された次第を告げると、すぐにそこから立ち去ってしまった。まるで天使が立ち去ったときのように。
 「信仰の感動」とはなんだろうか。それは「神の御心と自分の心のギャップ」と表現できるかもしれない。信仰者は、自分の心より高い神の御心を見上げて感動を覚えるのだ。しかしもし、その心が神の御心と一致しているような人がいたら、すなわち本心から神の御心を求め、ただその実現の他に何も求めないような人がいたとしたら、その人の心と神の御心の間にはギャップはないことになり、従って彼が信仰の感動を覚えることはないだろう。
 それでは彼にも天使にも、信仰の喜びはないのだろうか。決してそうではない。そればかりか、彼は神の御心を持っているのだ。彼は、自分が憧れていたものを今すでに手に入れ、それになってさえいるのである。
 これは、静かな感動であり、しかも彼固有のものではなく、神との共有の創造物なのである。
「しかし私たちは、キリストの心をもっている。」とパウロは言っている。
 主イエスさま。私の心から、人に取り入ろうとするような思いをすべて取り去ってください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

啓示

使徒行伝 第11章

「それでは神は、異邦人にも命に至る悔い改めをお与えになったのだ。」

 割礼に熱心な者たちは、異邦人に福音を宣べ伝えることはおろか、交流することも認めなかった。彼らは旧約聖書を背景とした、確固たる信念に基づいて行動しており、彼らの考えを変えることは誰にもできなかったのだ。その彼らが、ペテロの行った異邦人伝道に対して意義を申し立てたのだった。
 そのときペテロは、自分が見た幻とそれに従って行動した結果起こった出来事を簡潔に語ったが、そのときは、何一つ証拠を挙げることはできなかった。
 しかしパウロの説明を聞いていた彼らは、「それでは神は、異邦人にも命に至る悔い改めをお与えになったのだ。」と言って神を賛美したのだった。何が彼らを納得させ、その心を変えたのだろうか。
 それは、神ご自身だろう。神以外に彼らの頑なな心を変えられる者はいない。そればかりか、すべての麗しい啓示は天から、光の父から下ってくる。
 このときペテロの証を聞いていた彼らの心に、光の父からの啓示が直接に与えられ、彼らの心を照らしたのであった。
 この光は、かつて天から強く射してきてペテロの目を貫いた光と本質的に同じものであり、すべての人が主の福音を信じるときに心に与えられる光と同じものなのである。
 主イエスさま。私がいつもこの光を見ながら歩めますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年8月18日 | トップページ | 2005年8月23日 »