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2005/08/16

殉教

使徒行伝 第7章

 ステパノは聖霊に満ち、おそらく非常に優れた神の器だったろう。その彼が今裁判にかけられ、石打の刑に処されようとしていた。神には、彼を助けることができなかったのだろうか。
 それにしても、何と早い殉教までの道のりだろうか。「何も、よりによって彼が殉教しなくても良いのではないか。例えば、他にもっと働きの少ない人が犠牲になる方が神の為ではなかったのか。」などと、心のどこかでとんでもないことを考えていたりする。
 しかし、神にとって殉教は、私たちが考えているのとはまったく異なったものなのだろう。「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と主は言われる。
 つまり、このとき殉教を許されたのは、正にステパノだけだったのだ。彼こそは、神に願って、この最高の栄誉をついに授かった最初の者だったのであり、彼の尊い血以外に、このとき神の御前に捧げられるに足るものはなかったのである。
 もちろん、ステパノが他の信徒に比べて神により多く愛されていたということではないだろう。しかし神の軍勢に、このとき大いなる損失がもたらされ、それがキリストの十字架の尊い購いをすべての者に思い出させたのであった。
 主イエスさま。私が、あなたから殉教を許されるに足る者といつか成れますように。

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教会の奉仕

使徒行伝 第6章

「その人たちにこの仕事をまかせ、私たちは、もっぱら祈りと御言のご用に当たることにしよう。」

 今日の教会には、牧師が行う御言葉の奉仕以外にも、役員会、教会学校、諸活動等々、様々なものがある。それらの奉仕は、私たち人間の目から見ると、高いものから低いものまで、段階があるように思われる。
 しかし、そうではない。神は、どのように小さく見える奉仕にも、その中に無限の可能性と期待とを秘めておられるのだ。
 ステパノが引き継いだ仕事は、一見日常における信徒の世話役のようであり、あまり霊的とは見えないものであった。しかし神は、ステパノを通してめざましい奇跡としるしを行われた。ステパノが自分の奉仕をさぼって、使徒たちと同じことをしていたのではない。そのようにして、神の祝福を受けることはできない。
 彼は、彼に与えられていた奉仕を通して神の栄光が現れることを神に求めたのである。ただこのような姿勢だけが、からし種のような神の業を成長させ、それが大きな木となり、その枝に空の鳥が宿るほどにすることができるのだ。
 主イエスさま。私に、教会でもっとも小さな奉仕をお与えください。

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