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2005/08/11

奇跡

使徒行伝 第3章

「こう言って彼の右手をとって起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、躍り上がって立ち、歩きだした。」

 奇跡はかくして起こる。つまりまず、主イエスの御名で癒しを宣言する。次に信仰により、宣言したことを堅く信じる。さらに、その信仰に基づいて行動を起こす。これらのことにより、主の栄光の力が天から下るのだ。
 この「癒しの宣言」、「信仰」、「行動」は、絶妙な流れになっている。つまり、「宣言」により「信仰」が喚起される。それには、聖書の御言葉を使うのが効果的だ。御言葉には権威があるからだ。
 それにより、その人と癒される人の両方の心に信仰が起こるのだ。ここには、幾ばくかの技術的かつ経験的な要素が入り込む余地があるように思える。いかに速く、強い信仰が喚起されるかが重要なのだ。というのは、信仰はそれにより神につき従うためのものだからだ。
 奇跡を起こす者は、次に信仰によってその宣言の通りに行動する。そこには、迷いが入り込む余地はない。一抹の不信仰も入り込むことはない。ここで行動を起こしているのは、すでに彼ではなく、神ご自身なのだ。もし彼が、自分の思いによって行動するなら、しっぱいは日を見るよりも明らかだ。しかし、神にまかせるならば、決して失敗することはない。たとえ奇跡が起こらなかったとしても、それは失敗とはならないだろう。
 かくして奇跡は起こってきた。そして今もまったく変わらずにそれは起こるのを待っているのである。
 主イエスさま。この平凡な日々の直中で、あなたの御名があがめられるために、奇跡を行ってください。

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異言

使徒行伝 第2章

 イペレセペレ、サルクーヤサマルニーヤ、エセリーヤ、ハンダラバラキーヤ、セベレイヤマラルーサ、サイマルキーヤ、サボルセンバラ、ハンシィビリーヤ、イシュワラサバルルーサ、イペペレセペレ、ヤバルイメレーサ、ハンサバルリリリーヤ、ケベレケベレラルスバラルッサ、ハンビシュラルイヤ、マラマラサイヤルイエ、カルビーヤ、メレカルーサ、イェペレサルルーキヤ、パラパラルイイビリイビリ、バルバルーサマルキーヤ、ハンバラヤルビーヤ、サブルイビリ、マンサラッシュパラリーヤ、メネメネサイサルイーヤ、マママッサヤラルイヤ、メメメッセシャラバブイヤ、ヤマルタルルーサ、シュリンゲシャバルルージ、イシャバラソンダパラリーヤ、ホリミリーヤ、ケンソン。
 主イエスさま。わたしの霊があなたを賛美しますように。

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神の国のこと

使徒行伝 第1章

 主イエスが十字架上で死なれ、葬られた後にも、信じる群は、ちりぢりになってしまうことがなかった。それは、主イエスが40日にも渡って彼らに現れ、励ましと知識を与え続けられたからだった。
 この時期は、後に聖霊が下られるまでの前のとても大切な時期であり、神の国に関する知識が言葉によって彼らに伝えられたのだった。しかし、聖霊が来られた後には、神の国の知識は、言葉で伝えられる必要がなくなった。聖霊が直接に教えて下さるからである。しかし、新約聖書が記述されるためには、この言葉で伝えられるということが必要であったのだろう。
 主イエスさま。聖霊の語られることを私が理解できますように。

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天職

ヨハネの福音書 第21章

「しかし、その夜はなんの獲物もなかった。」

 獲物が無いのは当然だった。彼らは、すでに漁師をやめていたのだから。すでに彼らの漁師としての鑑は、狂い始めていたのだった。
 そのように私たちが、生涯を明け渡して主に従った後、再度元の生活に戻ろうとしても、決してうまく行かないだろう。彼が始めたことは、あまりにも大きなことであり、神聖な神の御計画に参与することであり、彼はすでにこの世のものではないものに関わってしまっているのであり、彼の波長は、すでにこの世とは異なるものになってしまったのである。そのような彼らに、主イエスは再度、招きの手を差し伸べられる。
 「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
 そのとき彼らは、かつて主イエスが彼らを召された時のことを思い出した。あのときも魚がたくさん採れた。そして、この世界のすべてを支配しておられるのは主であることを理解したのであり、今またその真理が再び彼らに啓示されたのだった。
 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。これは、かつてペテロがした「あなたこそ生ける神の子キリストです。」との告白と同じものである。
 私たちに必要なものは、ただ一つ、この告白であり、それには天からの啓示がどうしても必要なのである。
 主イエスさま。わたしにあなたご自身を啓示し、わたしの生涯を啓示してください。

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復活の御姿

ヨハネの福音書 第20章

「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。」

 主イエスの十字架がいかに神の愛を表し、神の栄光を示すものであろうとも、復活ほど栄光に満ちたものではあり得ない。
 十字架上の主イエスがいかに私たちに神の愛を啓示し、改心へ導くとしても、復活された主イエスほど力強く私たちの生き方を変革することはあり得ない。
 主の血によって、すでに購われた私たちに、次に必要なのは、復活された主イエスのお姿の啓示なのである。なぜなら、復活の主イエスこそ本来の三位の一位格としての御子の栄光に富んだお姿だからである。
 しかし、墓から出たばかりの主イエスは、まだ父も元に上られていなかった。すなわち、まだ人間の弱さを身に負われたままだったのである。
 しかし、父の元に上られ、栄光を回復された主イエスは、完全なる神であり、創造者その人であられるのだ。
 今、私たちがより頼むべきお方は、この復活の主イエスなのである。
 主イエスさま。復活され、回復されたあなたの栄光の御姿を私に啓示してください。

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この世のものでない権威

ヨハネの福音書 第19章

「あなたは、上から賜るのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」

 権威を握る者は、権威に対して非常に敏感だ。彼は、どうすれば権威を得られ、そして保てるかを知っている。それが彼の命であるからだ。
 しかし権威は、ある意味で非常にデリケートなものだ。わずかな均衡の狂いにより、それはもろくも崩れ落ちることがある。
 ピラトは、自分の持っている権威がどのようにもろいものであるかをしっていた。そして、そんな彼が主イエスと面と向き合うことになった。そのとき彼は、今まで見たことも聞いたこともなかった、新しい権威に出会ったのだった。彼は思わず主イエスに聞いた。「あなたはもともと、どこからきたのか。」しかし、主イエスはそれをピラトに説明するための言葉を見つけることができなかった。この世のものではないものをこの世の言葉で説明することは不可能である。
 残念ながらピラトに理解できたのは、祭司長や律法学者たちの訴えであった。それはピラトにとってもあまり説得力のあるものではなかったが、ピラトに理解できたのはこれだけであったため、彼に選択の余地はなかったのであった。
 主イエスはかくして、自らの権威によって十字架刑につかれたのであった。それは、誰にも止めることができなかった。彼について書かれていた預言は、その細部に至るまで。文字通りに成就したのだった。
 主イエスさま。わたしにあなたの主権を掲示してください。

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神の計画

ヨハネの福音書 第18章

「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。なぜ、わたしに尋ねるのか。」

 主イエスの生涯は、すべて彼に対する預言が成就するためのものであった。そして世の人々は、すべて彼に対する預言の通りに振る舞ったのであった。彼らは、主イエスの教えの本当の意味を何一つ理解していなかった。そしてそれに逆らい、妨害し、ときには自分たちの策略のために利用しながらも、預言の成就に貢献せざるを得なかった。
 しかしそれでも、主イエスご自身が彼らに協力されなかったら、「彼は罪人の一人に数えられた」との預言は、成就しなかっただろう。主イエスから見たら、この世の人々の計略は、すべて飯事遊びのようなものであったのだ。
 そして、現代を生きるクリスチャンにとっても、この世の人々の策略は、同じように飯事遊びのようなものである。彼らは、終わりの日に関する預言の成就に、我知らず貢献しているだけなのである。
 主イエスさま。わたしが目覚めた状態で、あなたのご計画に参与できますように。

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父なる神を知る

ヨハネの福音書 第17章

「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

 主イエスは、神であられたが、ご自身の栄光を捨てて、人の姿となってこの地上に来られた。このようなことが起こったことは驚くべきことだ。神にその栄光を捨てることが可能だとは。
 栄光を捨てるとは、どのようなことだろうか。それは主、がかつて持っておられた、神との親密な交わりの手段を失われたということを意味する。主は神であられたゆえに、全知全能であり、父なる神に聞かなければならないことは何もなかった。しかし、主がその栄光を捨てられた後は、父の御心を知るために、ときには夜通し祈らなければならなくなったのであった。
 彼はすべてにおいて、私たちと同じになられたのである。そして、その生涯を通じて従順を学び、激しい叫びと祈りのゆえに、父なる神に受け入れられたのであった。
 彼はその生涯により、神とはどのようなお方かを示して下さった。すなわた、主イエスを見た者は神を見たということにおいてである。それはどういうことだろうか。
 すなわち、神は主イエスと孤立して存在される方ではない。父、子、聖霊の交わりとして存在しておられる。それゆえに、人が神を見るという場合、ただ父なる神のみを単独に見るということは不可能である。神は孤立した存在ではないからだ。
 そこで、人が父なる神を見る場合、主イエスが父なる神を見るときの見方に完全に従うということが必要であり、そのことが完全になされた場合にのみ、そのとき人は父なる神を見る(知る)と言えるのである。そして、そのことは再び、人が主イエスを心に完全に受け入れ、お従いするということに他ならないのである。すなわち、主イエスを見たものは、父なる神を見たのである。
 そしてさらに驚くべきことは、父なる神を見るものは、その御心を行うのだ。だから、主イエスを心に迎える者は、父なる神の御心を行う者、すなわち、神の一人子となるのだ。
 主イエスさま。あなたのように、父なる神を知る者とならせて下さい。

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