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2005/07/28

三位一体

ヨハネの福音書 第14章

「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

 主イエスは、ご自身と父なる神とは一体だと言われた。この「一体」とは、「三位一体」の「一体」である。すなわち、主イエスと父なる神とは、別々の存在でありながら、一体だということである。
 主イエスはまた、このことが私たちにも起こると言われた。つまり例えば、私たちが言葉を発するとき、私たちが語るのではなく、そのとき、父なる神が私たちの内におられて、御業を行っておられるということである。
 そうなるためには、二つのことが必要となる。まず、この世界のすべてに失望し、その追求を断念し、それらから身を引くことである。次に、神に完全に魅了され、この世界の至るところに、神の良しとされるときにいつでも現わされ得る神の栄光の御業を常に期待して待ち続けることである。
 主イエスさま。まことにそのようになりますように。私はそれを心から願います。

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神の真実

ヨハネの福音書 第13章

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」

 主イエスと係わることは、知識やただの概念上の事柄ではない。それは、実に日常的な事柄であり、むしろこの世的な関係よりもさらに深いものなのだ。主イエスは、弟子たちと分かれる時が近づいたのを知られて、彼らとの関係をいっそう良く印象付けるために一つのセレモニーを行われた。
 そのころ、外から帰った人の足を洗うのは、奴隷や僕の仕事だった。奴隷は、お金で買われてその主人の所有物となったのであり、自分からは主人との関係から逃れられない。弟子たちも、主イエスがこれから受けられようとしている苦難により、その尊い血によって買い取られるのであり、主イエスとの関係は変わることがない。そしてこの関係は、一方的なものではなく、双方向の関係である。
 主イエスは、そのことを表現したかったのだろう。つまり、主イエスも弟子たちにつながれているということである。その保証は、神の誠実であり、神はご自分が約束されたことを撤回できないのである。しかし私たちは、いつもこのことを忘れてしまいがちだ。神がどこまでも誠実なお方であるということを。
 たとえ、私たちが不真実でも、彼は真実なお方なのである。
 主イエスさま。あなたの真実をいつも覚えていることができますように。

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全能の神の子

ヨハネの福音書 第12章

「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。」

 主イエスは、全能の父である神の子であった。そして、父の元を離れて地上に来られ、私たちと同じ姿になられた。
 この地上で生きる者は、みな時間の内で生きている。時間の内で生きるとは、未来について限定されているということだ。主イエスもこの地上においては、未来について限定された知識しか持っておられなかった。それゆえに、夜を徹して熱心に祈られたのだった。
 しかし父は全能のお方であり、この地上においては、様々な方法でご自身の計画を信じるものに知らせられる。しかしそのことで、彼が賢くなるのでも、また全能になるのでもない。だから父は、ただ目的を達成するのに必要なことのみを僕たちに示されるのだ。
 主イエスは、ご自分の受難のときを知る為に、他に預言者も特別な掲示も必要とされなかった。彼は、数人のギリシア人が訪ねて来たことにより、その時が訪れたことを悟ったのであった。これは、一つの暗号と言えるかもしれない。暗号は、心の通じた者同士の間でのみやりとりされるものだ。しかし、その意味するところに疑いの余地はない。というのは、彼は直接に父と話すのではなく、彼と親しい関係にある聖霊が彼にその暗号を解読して下さるのだから。
 主イエスさま。聖霊によって、あなたの御思いを教えてください。

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