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2005/07/23

神を信じる者の尊厳

ヨハネの福音書 第11章

「この人が多くのしるしを行っているのに、お互いは何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう。」

 主イエスの奇跡は、ついに4日間も墓の中にいたラザロを生き返らせた。このような奇跡は、天地ができてからこのかた、行われたことがないほどの決定的なものであった。そこで、多くの人が主イエスを信じた。
 しかしそのような驚くべき御業も、神に敵対する者たちにとっては、特別な意味を持ったものではなかった。
 彼らは、主イエスが神から来た者であることを知りながら、なお逆らっていたのだから。もし彼らに弁解できる余地があるとすれば、彼らは、主イエスがキリストであることを知らされていなかったことかもしれない。神はもう少し違う方法で来られると思っていたのだろう。しかし彼らは、神の国よりもこの世の幸福を求めていたのであり、彼らの不誠実さは弁解の余地がないものであった。
 そしてパウロによれば、現代において神を拒んでいる人にももはや弁解の余地はない。彼ら自身の良心が彼らを訴えるのだ。彼らは、実にどのような決定的なことが置きようとも、態度を変えることがない。彼らは、いつも神に敵対している者たちなのだ。
 私たちが出会うどの人が、このようなかたくなな人々なのかは、最後まで分からないだろう。だから私たちは、どのような人に対しても、神の僕として、良き訪れを伝える麗しい誇りと尊厳を持ち続け、いつも大胆に行動すべきだろう。
 主イエスさま。誰に対しても、あなたの権威により、接することができますように。

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一匹の羊となる

ヨハネの福音書 第10章

「彼は悪霊に取り付かれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか。」

 当時のユダや人の多くには、主イエスの語ることが、非現実的な戯言のように思われた。そして、主イエスの復活により、その確証が与えられたという。しかし、再びこの復活というものが処女降誕と同様に、現代人には、非現実的な戯言のように思われるのである。
 キリスト教信仰は、どこまでも不可解な性質を貫いてきた。それは、どこまで行っても、万民に証明することのできないものであり続けている。神がそれを望まれているのである。それはなぜか。それは、人々の心の中にある思いが明らかになるためだ。
 神が歴代の預言者を通して語ってこられたのは、人の心には良いものが無いということだった。そして、人が自分の思いを捨てて、ただ神のみに従うべきことを力説してこられた。しかし人は、神に逆らって多くの策略を考え出してきたのである。
 人間は、神の支配から逃れるために、神と人の間に入る王を要求した。そして、その弊害をいやと言うほど思い知らされた。それから社会主義、共産主義、民主主義、直接民主制、議会制、etc.、多くの改良(?)が施されてきたが、世界から戦争、公害、貧富の差、飢餓、テロ、等々が減少しただろうか。
 この歴史のドラマを演じるために費やされた気の遠くなるような費用と労力、尊い人命等々を思うとき、もしかしたら、この世界の活動が「悪霊に取り付かれている」のでは無いかと思えても来る。
 これが聖書の言っている、原罪の呪いなのであり、それから解放される道を主イエスはここで語っておられるのだ。
 その方法は、「羊になること」に他ならない。羊飼いでもなく、雇い人でもなく、狼でもなく、「羊」となることなのだ。
 主イエスさま。あなたの牧場の一匹の羊となることができますように。

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