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2005/07/20

人の自由

ヨハネによる福音書 第8章

「もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」

 神に聞き従うことは、徹底して自分を捨て去ることだ。そして、自分を捨て去るとは、神に完全に束縛されることに他ならない。しかし、それがどうして自由になることなのだろうか。
 しかし、もし人が生まれつきの自由のままだったとしたら、彼にはどんな望みもあり得ないのではないか。彼は自分が生まれてきた目的も、行く道も分からずに、ただ死に向かって走り続けるのみだ。そのような人間に自由になる望みがあるとするならば、それは主イエスが言っている通り、自分の造り主なる神を知ることによる他はない。
 ところが、人が神と向き合ったとき、神が全能であるゆえに、人の側には成すべき何事も、そして人から神に向けて提起すべきどのような意見も提案も、ましてや良いことも一切あり得ない。だから神を前にして人にでき得ることと言えば、それはただ従うことを置いて他にないことになる。
 かくして、人にとって自由になるとは、神を知り神に完全に従うこと、つまり神に完全に束縛されることなのである。
 しかし、そのことがいかにして、彼すなわち人にとって最大の自由であり得るのか。それは、彼が神を知ることにより、すべての真理をも知り、その真理を心底愛し、その実現を心から望み、それ以外の何事も求めないこと、すなわち、彼が神と意志を共有することによるのだ。
 主イエスさま。このことがあなたの御心にかないますように。

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不可解な人々

ヨハネによる福音書 第7章

「わたしたちはこの人がどこかきたのか知っている。しかし、キリストが現れるときには、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない。」

 彼らは、主イエスの家族を見て、彼がガリラヤ出身だと思った。しかし、主イエスはベツレヘムの馬小屋で生まれ、ダビデの血筋を引いていた。
 そこで彼らの言ったことは、正しかった。彼らは、キリストがどこから来たのかを知らなかったのである。
 しかし再び、彼らは間違っていた。彼らが「知っている者は、ひとりもいない。」と言った意味は、「どこから来たのか皆目見当が付かない」という意味であり、彼らは間違って見当を付けていたのである。
 物事の理は深く、それを最後まで見極められる人はいないのだ。だから、この世界には、人の数だけ真理があると言えるかもしれない。
 しかし、そのような状況の中で、神の御業は進められて行く。往々にして、クリスチャンは愚か者と見られる場合がある。それは、彼が偏った見解を持とうとしないからだ。一般人には、彼が拠り所としているものが理解できない。そして、彼を不可解な者とするしかないのである。
 だから、私たちクリスチャンは、自分が不可解なものであることをむしろ喜ぼうではないか。主イエスもそのように見られたのだから。
 主イエスさま。神の栄光が表されるために、あなたと共にこの世の不可解者に見られることを願います。

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