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2005/07/14

孤独の人

ヨハネによる福音書 第2章

「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません。」

 主イエスの公生涯は、徹底して孤独な生涯であった。預言者イザヤが書いたように「彼は悲しみの人で、病を知っていた」のである。
 実に、自分を生んだ母とも距離を置かざるを得なかったようだ。それは、やがて「彼は罪人の一人に数えられ」るからだったかもしれない。
 しかし主イエスが「わたしのとき」と言われた「そのとき」には、彼は、彼を心に受け入れた人と、家族よりも近い関係となるのだ、十字架の贖いによって。その新しい関係は、生まれながらの関係でも、いわゆる人間関係でもなく、第一章にあるように「血すじによらず、肉の欲によらず、ただ神によって生まれた」ものである。
 次に主イエスは、当時の宗教界においても孤独を貫かれた。ただ一人父の御心を行い、宮を清め、多くの権威ある人から憎まれた。
 最後に弟子たちとも完全に打ち解けることはなかった。主イエスは、弟子たちの心の中に何があるのかを知っておられたのである。
 神の清さの前には、この世のどのように良いと思われるものも、ただの汚れたものでしかない。「私の思いは、あなたがたの思いよりも高い」と主は言われる。その御心をこの地上で行おうとする者は、主イエスのように生きなければならない。
 あなたは、会社で、あなたを見とめてくれる人がいないことを悩んでいるかもしれない。しかし、それならあなたはむしろ喜ぶべきだ。あなたは主イエスに近いのだから。あなたは、家庭において、蝉の抜け殻のような存在かもしれない。それならむしろ喜ぶべきだ。あなたは、主イエスに近いのだから。あなたは、学校で、友だちもなく、毎日がとても長く感じるかもしれない。それならむしろあなたは、喜ぶべきだ。あなたは、主イエスのようだから。そのような代償を払う気がある者、またそのような状況にある者こそが、主イエスの友なのだから。
 主イエスさま。私の友が、ただあなただけでありますように。

 

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永遠の言葉

ヨハネによる福音書 第1章

「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」

 「律法」は、上から一方的に与えられるものだが「めぐみとまこと」は、そうではない。律法を与える者とそれを受ける者とは、一対多の関係だが、恵みを与える者とそれを受ける者は、一対一の関係なのだ。恵みを与えるには、与える者が受ける者の状態を認識することが必要となるからだ。この意味で主と私たちの関係は、一対多の関係ではなく、常に一対一の関係なのだ。
 主イエスは、ヨハネの子シモンを知っておられ、彼を「ケパ」と愛称で呼ばれた。また、ナタナエルがよくいちじくの木の下で祈っているのを知っておられ、彼の信仰を賞賛され、彼に預言の言葉を授けられたのである。
 このお方は、「神の言」であった、と書かれている。この「神の言」とは、書き記された言葉ではなく、生きて働いている言葉である。主イエスの語る言葉は、彼が語った通りに成就した。彼は永遠から永遠に渡って生きておられるお方であり、彼にとっては、過去も現在も未来もない。彼は、時間を超越しておられるのだ。主イエスがナタナエルに向かって、「わたしはあなたがいちじくの木の下にいるのを見た。」と言われたのと「これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう。」と言われたのは、同じ観点からのことであり、共に永遠の世界で起こっていることなのである。
 ナタナエルに恵みの言葉を与えられた主イエスは、永遠から永遠に渡って彼と一対一の関係になられたのである。
 主イエスさま。私が永遠の決断をもってあなたにお従いすることができますように。

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主イエスのお姿

ルカによる福音書 第24章

「そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。」

 この箇所は、ちょっと考えると妙ではないだろうか。ふつうなら人を見分けるのは、顔や声であり、まして「パンを裂く様子」などではない。主イエスはたびたび弟子たちにパンを裂いて渡していたのだろう。それはいつも夜であり、薄暗い中でのできごとだったのかもしれない。そして昼は、主イエスはいつも群衆に取り囲まれておられたのかもしれない。そのように百歩譲っても、この聖書の記述は、やはり理解し難いことではある。
 マルコの福音書の対応する箇所には、「イエスはちがった姿でご自身をあらわされた。」と書かれている。また、マタイの福音書には、「そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。」とある。主イエスは、別人のようになられたのだろうか。
 私はそうだと考える。それは、弟子たちのためであり、同時に私たちのためでもある。弟子たちが、生前の主イエスに過度の愛着を持たないために、そして、現代を生きる私たちが、主イエスを直接見た弟子たちをうらやましく思わないために。
 主イエスさま。私たちとあなたとの関係が、弟子たちとあなたとの関係以上のものでありますように。

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群集心理

ルカによる福音書 第23章

「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った、」

 あれほど主イエスを慕って着いてきていた民衆が、なぜ彼を捨ててその敵となってしまったのか。おそらく彼らは、力のある者の側に着くということなのだろう。
 それが民衆心理の恐ろしいところだと思う。彼らは共に行動するだけで、共に考えようとはしない。かよわい羊のようなものだ。彼らは、常に一人一人の集合でしかない。彼らが主イエスを捨てるまでには、様々な葛藤がありもしたであろう。しかしそれらは過程的なことに過ぎず、結論は最初からきまっているようなものなのだ。
 しかし、民衆ではない者は、これと異なる反応をする。まずピラトとヘロデである。彼らは、主イエスに何も罪を見いだせなかった。それは正しい判断であった。彼らは、民衆心理に捕らわれてはいなかったのである。
 主イエスが十字架を負ってゴルゴダの丘へ向かうとき、大勢の民衆が悲しみ嘆きながら後をついていった。群衆は権威の隙間を縫って様々な反応をする。しかし、主イエスへ下された刑罰を変える力はない。この羊の群を牧しているのは、もはや主イエスではなく、闇の力なのであった。
 しかし群衆の中にいる人が、死という究極的な状況に直面したとき、彼はふと我に変えることになる。人が死ぬときは、みな一人だからだ。彼は突然群衆から連れ出され、一人神の前に立つことになる。
 主イエスと共に十字架につけられた強盗の一人も死に直面し、群衆から連れ出された。そのようなときに、彼が歩いてきた人生において、彼がどれほど一人の人間として歩んできたかが分かるのだ。もう一人の強盗は、最後まで群衆の一人、つまり羊のままだった。
 最後にもう一人、群衆から抜け出た人がいた。アリマタヤのヨセフである。彼の場合は、死に直面したのではなかったことが特徴的である。では、何に直面したのか。それ信仰だった。彼は主イエスと出会って、彼を信じる信仰を与えられ、その後の彼の生涯を主イエスに捧げたのであった。
 主イエスさま。私の残りの生涯を、ただあなたのために生きることができますように。

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