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2005/07/12

闇の力の時

ルカによる福音書 第22章

「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。」

 何という暗い雰囲気がこの章全体を覆っていることだろう。
 律法学者やパリサイ人たちは、民衆を恐れていたので、その手前、主イエスを捕らえることできなかった。そこで民衆のいない夜にユダとの間で主イエスを買う取引きをしたのである。それは、闇の支配の時であった。民衆もこの闇の力には勝てなかった。主イエスを捕らえた者たちが彼を大祭司の邸宅へ連れ込んでしまうと、民衆はその前に、単に力の無い一人一人の集合でしかなくなった。今まで主イエスを取り巻いていた群衆は、蜘蛛の子のように散ってしまった。そして、一人一人が主イエスの事実上の敵と化していった。
 今こそ闇の力は、その牙をむき始めたのであった。それにまず驚いたのは、ユダ自身だったかもしれない。その闇の力のあまりの変貌ぶりに、事の重大性に気づいた彼は、契約を解消しようとしたが、もはや手遅れであった。
 増大する闇の力は、底知れない恐怖を醸し出す。それは、生きるものに人生の目的を見えなくさせる。今まで成してきたことが、すべて無駄だったように思わせるのだ。その前に、主イエスにどこまでも従って行くとのペテロの決心は、跡形もなく崩れ去った。
 一人、また一人と闇の力にばらばらにされていく弟子たちを見ながら主イエスは、孤独な戦いを余儀なくされていった。闇の力が総力を上げて彼に襲いかかった。
 しかし主イエスご自身は、すでに闇の力に勝利しておられた。ゲッセマネの園で。それは、すべて計画されていたことだった。そしてその計画が滞り無く実施されるために、法廷における主イエスの証言も必要であった。彼は、ただそのためだけに、口を開かれた。
 闇の力は、今このときに襲ってくる。しかし、天の前にはすべてが天地創造の昔から計画されたことなのである。
 主イエスさま。闇の支配の時においても、あなたの勝利を実感させてください。

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私たちの救い

ルカによる福音書 第21章

 「これらの事が起こりはじめたら、身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから。」

 ここで主イエスが言われている「あなたがたの救い」とは、いったいなんだろうか。というのは、わたしたちはすでに救われているのだから。
 これは、「苦しみからの救い」と解釈できると思う。しかし「患難前携挙論者」のような意味ではなく、「被造物自身が産みの苦しみを続けている」と聖書にあるその苦しみからの救いである。この苦しみは、アダムが罪を犯したときから始まった。神が「あなたは額に汗して収穫を得、ついに塵に帰る」と言われたからである。
 そこで「私たちは今、苦しみの中にある」と私は考える。神を知らない人々だけでなく、心から主イエスに従い、主イエスに仕えつつ生きようとするものも、みな苦しみの中にある。神は分け隔てなさるかたではない。聖書を偏見なく読む者は、これに賛成してくれるのではないだろうか。パウロも「私たちが神の国に入るためには、多くの患難を経なければならない。」と言った。
 もちろん、クリスチャンとそうでない者との間には、雲泥の差がある。それは苦しみの意味についてである。神を知らない人は、この世界において根本的な孤独の中にある。彼は自分を愛しておられる方を知らない。しかしクリスチャンは神を知っている。神がどれほど自分を愛しておられるかをも。しかし、それは主イエスもそうであった。しかし主イエスは、地上で誰よりも苦しまれたのであった。愛する者の苦しみを通して罪人を救うというのが、神のなさり方のようだからである。
 そこで私たち信じる者もそのような苦しみの中にある。そして主イエスが、「あなたがたの救い」と言われたことが成就する日は、審判の日であり、神の義が明らかにされる日であり、私たちの喜びの日なのである。
 主イエスさま。私たちの救いの日に、あなたの前に恐れずに立つことができますように。

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