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2005/07/05

永遠者の視点

ルカによる福音書 第15章

 聖書には、いくつかのモチーフが繰り返し現れる。その中の一つがこの「放蕩息子」のモチーフである。すなわち「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかる。」ということである。そしてそのとき天に大いなる喜びがわき起こる。
 しかし、神の全能との関係から私たちがこのことを思いめぐらすとき、一抹の疑問を抱かざるを得ない。つまり、神ともあろうお方が、なぜ何かを失うということをしてしまったのか、ということである。そして、そこになにがしかの意図的な要素を想定したくなる。これが予定論の糸口なのだろうが、それでも次の更なる難解な疑問が湧いて来るのを止めることはできないだろう。すなわち、なぜそのような「無駄な」ことをなさるのか、という疑問である。
 有限の世界で、時間に取り囲まれて生きている私たちは、このように考えざるを得ないが、このことを理解しようと望むなら、私たちは永遠者の視点からものごとを見る必要がある。
 つまり、まず信仰に立って「それは必要なことだった」と考える。そして次にみ言葉を読むことだ。み言葉には「天に大いなる喜びがあるだろう」とある。つまり「出て行くことと帰って来ること」これが神の大きな喜びだということだ。
 しかし再び私たちは、このことを永遠の視点から見る必要がある。この「出て行くこと」と「帰って来ること」この二つは永遠の中では一つのことだ。永遠の中では、すべては一つだからだ。さらに「出て行くこと」という表現は、この有限な世界での表現であり、これを永遠の世界の表現に変えると「出て行く能力」となるだろう。そしてこれと「帰ってくる能力」が一つであるとは、この二つが統合したものが私たち人間であり、神は私たちをそのように自由意志を持ったものとして創造されたのである。そして「天に大いなる喜びがある」とは、この二つの能力が共に永遠の能力として確定し、統合され、神が最初に人間を創造されたときの状態になることにより、「すべてが良い」ということになるのだろう。
 主イエスさま。私が永遠にあなたの僕となることができますように。

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人生と聖書

ルカによる福音書 第14章

 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることできない。」
 キリスト教を信じることが主イエスの弟子となることだとしたら、それは何と難しいことだろう。そもそも今日の教会で、この主イエスの言葉を聞くことはあまりにも少ないと言えないだろうか。
 この一見冷酷とも思えるような主イエスの言葉は、文字通りそれに従うことを意図して語られたものではないのだろう。それは、「あらゆる時に、神を第一にしなさい」との意味であり、律法の第一の命令である。しかし主イエスはまたこうも言われた。第二もこれと同様である。すなわち「あなたを愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」
 ここに大きな意味があると思われる。主イエスは、「まず座して、・・・考えてみないだろうか。」と言われる。つまり、最後まで真実で有り続けられるものだけが真実だということだ。
 例えば、友人に伝道するときに、良く見られようとするあまり、返って福音をはっきり伝えられずに、友人がいつになっても救われないことがある。家族に対しても同様である。それならいっそ伝道しないのと同じかもしれない。
 まず座して、自分の態度が最終的に、友人を主に導けるものかどうか良く考える必要がある。そしてこのことをつきつめていくと、結局それは、主イエスのためにすべてを捨てて従うことと同じになるということなのだろう。
 ああしかし、私たちはこのことを学ぶのに、何と多くの時間を浪費してしまうことだろう。それはまるで、イスラエルの永い背きの歴史を一人一人が繰り返しているようにも見える。人の人生は、それほどに重みのあるものなのかも知れない。そして、旧新約聖書のすべては、私たち一人一人の人生に対応し、そのために書かれたのだろう。だから、あなたがアブラハムを読むとき、あなたがアブラハムであり、そこに書かれていることを信じるなら、あなたの人生にアブラハムの祝福が与えられるということなのだ。
 主イエスさま。私の人生があなたの人生となりますように。

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狭い門

ルカによる福音書 第13章

 「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」

 神の国は永遠の世界である。そして、私たちが暮らしているこの有限の世界と神の国が出会うのは、時間軸上の一点なのである。この一瞬が永遠の世界への入り口なのだ。
 この瞬間に、天国の知識が注ぎ込まれ、罪が示され、悔い改めが行われ、魂の収穫が行われる。そしてそれ以後、彼は神の国の住人となるのだ。
 しかし、現代の教会においては、この一瞬を見いだすことが非常に困難になっているように見える。その理由は、パウロが言っているように「私たちが救われるのには、多くの困難を経なければならない」のだが、その困難が今日、まれにしか存在しないことによる。
 この「救われるための困難」とは、実に焼き尽くす火であり、私たちがそれまでの人生で構築してきた「価値観」を焼き尽くすための火なのだ。
 主イエスさま。私が神の国へ、狭い門から入ることができますように。

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