« 2005年7月1日 | トップページ | 2005年7月5日 »

2005/07/02

人生の終着駅

ルカによる福音書 第12章

 「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠されているもので、知られてこないものはない。」
 神の国では、隠れているものは何もない。神がすべてを見ておられるからである。私たちはこの神に申し開きをしなければならない。
 また、私たちには不足も欠乏もない。神が私たちを心配して下さるからである。
 さらに神の国には、戦略もない。神が私たちに対する永遠の計画を持っておられるから。
 これらのことが、神の国の永遠性であり、私たちは、この有限の世界からつれだされて、永遠の世界に入れられたのであり、そのときから私たちの人生は、永遠の内に移されたのである。もはや私たちは、生活のことであくせくする必要はない。また何かを恐れておびえる必要もない。さらに、将来何になって名を上げようと考える必要もない。それらのことはすべて終わりを告げ、そのようにしてすでにあなたの人生の喜びと悲しみは終わったからである。
 これらの有限な事柄があなたの人生から取り去られたのであり、あなたは主イエスにより、そのような人生の呪いから解放されたのである。その後のあなたの人生を良くイメージしてみる必要がある。そのときあなたの人生に具体的に何が残されるのかを。
 それは、神を礼拝することと福音を宣べ伝えることである。つまり教会生活があなたの人生のすべてということだ。もしあなたが会社に勤めているなら、その目的は出世や社会貢献ではなく、伝道である。このことを第一にするならば、神があなたの人生の面倒をみてくださる。そしてあなたの名前はいのちの書物に書き記されているのだ。
 主イエスさま。私があなたの中に自分を見い出すことができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宣教の困難

ルカによる福音書 第11章

 主イエスの地上の宣教においては様々な敵が存在した。それらの敵は次第に攻撃の力を強め、ついに主イエスを十字架刑にまで追い込んでしまった。しかし、それは遠い昔から預言されていたことであり、神の永遠の計画だったのである。
 しかし、ヨハネの黙示録を読む限り、私たちも殉教に方向付けられているように見える。もしそうでないのなら、今なおどうして宣教上の困難が存在するのだろう。それは、魂が神の議によってふるいにかけられるためであり、そのために迫害も必要となるのだ。
 私たちクリスチャンは、ともすると主イエスを信じることによる祝福や幸福ばかり夢見ているようなことがないだろうか。主イエスを信じることにより、無常の幸福が与えられる。それは、神の国の力と喜びと平安であり、信じた者に直ちにやってくるものだ。しかし、それと共にやがて戦いがやってくる。そしてこの戦いは、殉教に向かっているのである。歴史がそれを証明しているし、神の言葉もそのことを語っている。
 主イエスは、当時民衆から絶大な信頼と指示を得ていたパリサイ人の家に招かれたとき、そこに平安に留まることができなかった。主イエスは、彼らのすべてを否定し、避難し、叱責さえされた。そして自らそこを出て行かれたのである。このことは、和を重んじる日本人には、理解しにくいことだろう。そして、私たち日本人クリスチャンが、この社会の美徳を身につけ、それを神のご計画の上に位置づけ続ける限り、彼の元には迫害はやってこないだろう。
 しかし逆に、私たちがその美徳を主イエスのために、価値のないものと思い、それを軽視するなら、すぐにでも困難に遭遇することができる。そして迫害に会うならば、それは幸いであると主イエスは言われた。そのとき私たちを通して語っておられるのは、パリサイ人の家から、捨て台詞を吐いて出て行かれたのと同じ主イエスだからである。
 主イエスさま、私を荒海にあなたの光を投げかける灯台としてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年7月1日 | トップページ | 2005年7月5日 »