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2005/06/09

お金で買えないもの

 「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。」 使徒行伝 第8章20節
 この世界には、お金で買うことのできないものがある。例えば「知識」を得るには、他人に頼むわけにはいかず、自分で学ぶことが必要である。しかし、「人生を生きるための知恵や忍耐」は、自分の人生を迷いつつ生きることによってのみ得られるものである。つまり「学ぶ」のではなく、「習得」するのだ。
 しかし、学ぶことも習得することもできないものがある。それが神の賜物である。これは、「願って与えられる」ものなのであり、努力の成果ではない。
 しかし、学ぶことも習得することも願って与えられることもできないものがある。それは、「信じる」ことにより得られるものであり、最大の奇跡としての「神の救い」である。
 しかし、学ぶことも獲得することも願って与えられることも信じて受けることもできないものがある。それは「あなたと神との関係」であり、これを受ける方法は、ただ「待つ」ことだ。神があなたに「永遠の従順」を与えられるまで。あなたが神の前で永遠の存在となるときまで。

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神の裁き

ルカによる福音書 第3章

 神は、メシアであるイエスを遣わされる前に、まずザカリヤの子ヨハネを遣わされた。彼は偉大な人で、聖霊に満たされていたので、人々が彼の元に来て、救われるための方法を尋ねた。平民の一人が尋ねた。「私たちは何をすれば救われるのでしょうか。」ヨハネは聖霊に満たされて答えた。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。」彼は、取税人や兵士にも、それぞれに応じて成すべきことを告げた。彼が教えたのは、この世においては、悔い改めの結果としての「行いの実」を結ぶことが必要であるということだった。それは、律法に記された地上における神の国の法則であった。
 しかしその後で彼は、天上の天国のことを語り始めた。「この方は、麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き払われるであろう。」
 キリストが来られることは、このような恐ろしい裁きを意味する。キリストは、神に遡るイスラエルの永い歴史の末裔として来られた。彼により、この長い系図は完成を見た。彼こそは途絶えていた人から神への道を復元する者なのだ。彼を知るものは、この永い歴史の呪いから解放される。しかし、彼を知らないものは、依然としてその呪縛の中に留まるのだ。これが裁きだ。
 「信じない者は、すでに裁かれている。神の一人子の名を信じないからである。」 ヨハネ3:18
 主イエスさま。あなたの裁きの恐ろしさとその甘美さを教えてください。

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神を待ち望む

ルカによる福音書 第2章

 この時代に生きた人々は、ただ一つのことを一心に行っていた。それは、「待つこと」だった。羊飼いは、貧しく厳しい生活の中で、寡婦はひっそりとした生活の中で、また信仰者は、聖書の預言書を読みつつただただ待っていた。この時代にはただそれしかできなかった。強靱なローマ帝国に支配されていたのだから。他には有益なことはなかったのだ。
 しかしこのことは、今日でも変わらない。私たちは、いつでも悪の力との戦いの中にあり、悪の力は日常の中に猛威を振るっているのである。私たちは、その悪の力の制圧の中で、暗黙の内に何かを待っていると言えるかもしれない。
 しかしいったい、私たちは何を待っているのだろう。ある人は、魅力的な商品が発売されるのをまっている。また他の人は、自分を愛してくれる人が身近に現れるのを、またある人は、どこかで戦争が始まるのを待っているかもしれない。それらは、実は神が私たちの中に植え付けられた、創世記に書かれている例えば「支配」、「所有」、「創造」という根本的な能力に起因するものなのだが、多くの人々は、それを神から与えられた力としてではなく、自分の生まれつきの能力と理解して乱用し、社会を混乱させている。
 しかしシメオンは、自分が何を待っているのかを知っていた。だから彼は、自分が待っていたものが現れたとき、それと気づいて神を賛美した。
 そして今日、私たちクリスチャンも、自分が待っているものが何であるかを知ることができる。しかしそれは聖霊によってのみ可能なことである。
 「待っているものを知る」とは、神の御心を知ることに他ならない。シメオンは御霊に感じて宮に入って行った。そして神の栄光と共に自分が待っていたものを見たのである。
 主イエスさま。私があなたにあって、今待っているものが何なのか、啓示してください。

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神に従うこと

ルカによる福音書 第1章

 神は、主イエスをこの世界に生まれさせるために、様々な準備を行われたが、高齢のエリサベツの夫ザカリヤにには天使を使わし、バプテスマのヨハネの誕生を預言した。神の接近に出会うとき、人間はそれぞれの状態に応じて様々な影響を受けることになる。
 ザカリヤの場合は、天使の言葉を信じなかったために、口がきけなくなってしまった。人間は神の清さと力に遭遇したとき、ザカリヤのように害を受けることも有りうる。だから私たちは俗なまま神に仕えることは危険だと言えるだろう。「私たちの主は、実に焼き尽くす火である。」とパウロは言っている。
 しかしザカリヤは、自分に語られた神の言葉が成就したとき、神をほめたたえた。自分の口をきけなくした神をほめたたえたのである。そしてそのとき彼の口が解けて、彼の恥はすすがれ、妻エリサベツの恥もすすがれた。ここに、神に従う者とそうでない者との大きな差を見ることができる。
 神に従うとは、何かこう神の同労者として神のために何かを成すというようなことではない。それはむしろ、神のご計画の中に組み込まれることであり、むしろその中に埋没することだ。そのとき、神が私たちを再び立ち上がらせてくださる。「主は、うずくまっている者を立たせられる。」からだ。そしてそのような者だけが神の勇士として用いられるのだ。
 主イエスさま。あなたの哀れみにより今、もう一度私を立ち上がらせてください。

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