« 2005年6月3日 | トップページ | 2005年6月9日 »

2005/06/08

イエスの復活

マルコによる福音書 第16章

 主イエスの復活は、一つの恐怖である。まず、死人が蘇るということ自体、気味の悪いことだ。たとえそれが身内のものであっても。
 次に、主イエスを十字架に付けた者たちにとっては、それは限りない恐怖であろう。
 次に弟子たちにとっても一つの恐怖でありうる。彼らは、主イエスの死により、また以前のある意味で平穏な生活に戻り始めていたであろうから。しかし今。自分たちを支配し、見知らぬところへ連れて行く存在が蘇ったのだ。
 この世界の視点で、主イエスの復活を見るとき、それは恐怖と写る。弟子たちや女たちが、主イエスの復活に接し、恐れたり疑ったりしたのは、そのためだと思う。そして今日においても、もし私たちに神の掲示がないのなら、主イエスの復活は、同じように恐怖と写ることだろう。
 というのは、使徒行伝における初代教会のような伝道を今日の教会が行ったなら、たぶん多くの教会員は、教会から出ていってしまうだろうから。それは多分、聖霊の迫りと励まし、慰め等により、初めて可能となるのだろう。
 しかしそういうことはあっても、主イエスの復活は私たちにとって大きな喜びでありうる。しかしそのことは再び、私たちの主イエスに対する従順と信仰の上に成り立つのである。
 主イエスは、復活してから言われた。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」この命令を真摯に受け止め、その実現のために人生を捧げる者だけが、主イエスの復活を真に喜ぶことができるのだろう。
 主イエスさま。あなたの大宣教命令を私に実行させて下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イエスの死

マルコによる福音書 第15章

 「ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。」 マルコ15:44
 マルコ福音書では、イエスの十字架刑は、この第15章に納まってしまっている。
 人の一生は、時としてとてもあっけないものに見えることがある。かつてピラトは、メシアの誕生におびえ、その来臨を阻止するために、たくさんの幼児虐殺まで行った。そして、ある時ついにその恐れていたメシアがエルサレムに現れた。しかし捕らえられて裁きを受けるために自分の前に引き出されたメシアは、何と弱々しく見えたことか。そして彼は、自らメシアに死刑判決を言い渡した。そのメシアがついに息を引き取ったのであった。何とあっけない最後だったことだろう。
 しかしこの世界全体は、そうは受け取らなかった。全地は光を失い、地は震えおののき、数十センチもある分厚い神殿の幕が、上から下まで真二つに裂け、墓から死人が蘇った。イエスを見ていた百卒長は、これらのことを見て「まことにこの方は、神の子であった」と言った。
 主イエスさま。あなたのご生涯の偉大さに目を開かせて下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年6月3日 | トップページ | 2005年6月9日 »