2つのバプテスマ
マルコによる福音書 第1章
神の子イエス・キリストの福音は、洗礼者ヨハネの宣教から始まる。この働きなくしては、何も始まらなかっただろう。彼の働きはそれほど重要なものだった。全能なる神がそれを計画されたのだった。
しかしここで、洗礼者ヨハネが授けていたところの「悔い改めのバプテスマ」とは、どのようなものだったのだろうか。主イエスは、ご自身もお受けになるほどそれを重んじられた。実はそれは、今日私たちが受けるところのバプテスマ(水の洗礼)と同じものだ。
それは、私たちが主イエスに従い行くための準備としての一つの儀式と言えよう。この表明を通して、今後、生来の自分の罪から離れ、まったく新しい心で神に仕えることを約束するのだ。しかしそれが可能とされるためには、罪の完全な購いの手段が提供されなければならない。ここに主イエスの十字架がすでに前提されているのである。
だから私たちはバプテスマを、それがそのまま主イエスにつながる行為と理解してはならないだろう。主イエスとの関係は通常、その後にあるものなのだ。
私たちが主イエスとの関係に入るためには、主イエスが与える「聖霊のバプテスマ」を受ける必要がある。これ抜きに主イエスを個人的に知ることはできない。洗礼者ヨハネ自身は、聖霊のバプテスマを受けていなかった。だから彼は、獄中から弟子を主イエスの元に遣わして「来られるべきお方は、あなたですか、それとも他に誰か待つべきでしょうか」と尋ねさせた。しかし、聖霊のバプテスマを受けた者は、主イエスが誰であるかを知っている。そして、いまこのときに神が何を欲し給うかを知るのだ。
主イエスさま。私が聖霊によって、あなたのお心を私の思いとして知ることができるようにお助けください。
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