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2005/04/30

妥協の世界

マルコによる福音書 第10章

 この世界で運用されている様々な慣習や法律は、みな多かれ少なかれ妥協の産物だ。モーセが離縁状を出すことを許したのもそうだった。
 私たちは、長い間人生を生きてきて、そのような慣習に慣れてしまったために、律法の妥協的な精神が現実であるかのように思ってしまうのだ。私たちの心をこの世界の慣習が殻のように覆っている。それはこの世においては、様々な誹謗中傷から私たちを保護してくれるので、私たちはそれを頼りにしてしまうのだが、それは実は時が来るともろくも崩れ去って行かざるを得ないものだ。そしてその殻が取り除かれるとき、私たちの内部にいかに骨が無く、甲殻類のようであったかが分かるのだ。
 しかし主イエスは、天国に入るためには、幼子のような純粋性が必要だと言われた。私たちは、天国に入る前にそれまでの人生で得てきたすべてのものを脱ぎ捨てる必要がある。人生を生きるためのどのような知恵も、天国には携えて行くことができない。天国に持っていけるのは、ただ幼子のような純粋性と燃えるような主への愛である。
 私たちは、できればこの地上にいる内に、天国に行くための準備をしたいものだ。そのためには、私たちの内にある既成概念を取り除き、私たちの命が尽きたときになくなってしまうようなものは、思い切って捨ててしまうくらいの思い切りが必要だろう。
 そのようにして私たちがこの世界の様々なものから自由になり、天国に向かって歩み始めるとき、だんだん私たちは、この世界からはみ出した存在となってくる。そしてどこかこの世と波長が合わなくなってきて、今までうまく行っていた日常が、楽しかった毎日がどこかギクシャクしてきて、このままではだめで、何とかしなくてはならないように思えてくる。それらのことに私たちはどのように対処すべきだろうか。
 しかし私はこう思う。すなわち、それは対処不可能なことなのだと。主イエスもそれに対処されなかった。彼は、天国の法則に歩んだ報いをこの地上で受けられた。それはある程度、彼に従って歩む者たちの運命でもある。主イエスは、ご自分の近い生来を見越しておられ、エルサレムに顔を向けて進んで行かれた。そしてその先には十字架が待っていたのである。
 主イエスさま。私が、自分の十字架を負ってあなたにお従いできるように導いてください。

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