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2005/04/20

悟りと業

マルコによる福音書 第8章

 パリサイ人が「しるし」を求めたとき、主イエスは「しるしは、今の時代には決して与えられない」と言われた。この「しるし」とは、「証明」のことである。主イエスは、病人を癒し、悪霊を追い出し、神の言葉を解き明かしたが、それらのすべてが彼が来るべきメシアであることの「しるし」であった。それに対して、パリサイ人は、もっと違う公式な効力のあるものを要求したのだった。
 今日においても、私たちが主イエスのお役に立つために何か、公式な証明が必要になるのだろうか。ときにはそうかもしれない。たとえば、教会を牧するときには、神学校の卒業証書とか、牧師の免許状とかが、もしかしたら必要になるかもしれない。それは、秩序を保ち、混乱を避けるために必要なことだろう。
 しかし主イエスは、そのような証明を何も必要とされなかった。主イエスが必要とされたのは「悟り」であった。「悟り」とは何だろうか。それは「超自然的な理解」ということができる。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とをよくよく警戒せよ」と主イエスは言われた。
 五つのパンを五千人に分け、七つのパンを四千人に分けたとき、主イエスはそのことを通して弟子たちに超自然的な理解(悟り)を期待しておられたのだ。パリサイ人が頼りにしているような、何かこの世的な証明ではなく、神から直接に与えられる確信である。この世の権威は「紙ペラ」を要求する。しかし主イエスが与える権威が要求するものは、そのような燃え尽きてしまうものではない。それは、天から心の奥底に書き込まれる確信である。ペテロは、この確信を告白したのだ。
 今日、私たちがクリスチャンであることを証明するものはなんだろうか。それはまた同時に天国の鍵でもあるのだが。それは「悟り」と「業」と言えるだろう。すなわち、天から啓示される「イエスは主である」との確信と、それにより与えられる主イエスの弟子としての「神の僕としての業」である。
 主イエスさま。あなたが主であるということを私に啓示してください。

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