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2005/03/17

一つの研究成果

批評:論述「離脱について」

 このドキュメントをもって、このブログにおけるエックハルト研究は一応終了する。そこで最後に、私の最大の関心事の一つであったところの「エックハルトの信仰の確信」について考察しておきたい。
 神秘思想家という論証不可能な立場に身を置きながら、彼は公然と真理を説き、その保障として自分の魂を担保に差し出す。その確信はどこから来るのだろうか。
 彼以外の大宗教家も著明な神学者も、また大教会の牧師にしても、そのようなことが可能とは思えない。しかし信仰者として生きるということはどういうことだろうか。それは自分の信仰に命を賭けるということだろう。そしてそれは、自分の魂をその担保に差し出すことにほかならないのではないだろうか。というのは、もし彼(信仰者)が見当違いをしていたら、彼は永遠に滅びるかもしれないのだから。
 それでは、エックハルトの確信はどこから来るのだろう。それはまず、彼自身の神秘体験だろう。『かつてある人は、あたかも夢の内での出来事のように−それは白日夢であったが−子供を宿した女性のように無を宿したと思った。この無の内で神が生まれたのである。それは無の果実であった。神は無の内で生まれたのである。』
 次なる源泉は、聖書の記述である。彼は聖書に徹頭徹尾忠実である。たしかに聖句の引用においては、非常に自由な装飾を加除する傾向にはあるが、その精神においては、一点の曇りもないかのようである。彼は、聖書の一点一画も解釈をおろそかにすることはない。彼の解釈は常に新しく、それまで誰も試みなかったようなものでありながら、互いに矛盾していないのである。彼は、あたかもバベルの塔においてバラバラになってしまった聖書解釈の間を満たすエーテルを持っているように見える。彼の聖書解釈には、つねに彼の全神学体系と彼の魂の運命が懸っていたのだ。
 最後に彼が抱いている神への愛である。彼のように神を愛している人を知らない。それは筋金入りでガラスのように透明な愛だ。彼の場合、彼の神学の前にまずこの神への愛があるのだ。この愛なしに彼の神学は成り立たない。彼は永遠の愛をもって、彼の魂を担保に差し出しているのである。
 しかし、以上のことから、私たちも彼の神学を全面的に信じて、彼と共に自分の魂を担保に差し出すべきであろうか。それについては、私はここであえて「否」と言っておきたい。その理由はまず、私はエックハルトではないからである。仮に神がエックハルトに「おまえの魂を差し出しなさい。」と言われたのなら、エックハルトにおいてはそれが正しい行為であることは認める。しかしその同じ神が、私に対しても同じように「おまえの魂を差し出しなさい。」と言わない限り、その行為を行うべきではないと思う。これはエックハルトの神学から帰結することだと思う。私は、ただ神との関係により、すべてを行わなければならないのである。私がエックハルトに従って成すべきことは、神が私に「これをせよ。」と言うような存在になることである。それ以外にない。エックハルトは、それを願う思いを与えてくれた。その意味で、この研究は有意義だったと思う。それが、私がこの研究により得た唯一つのすばらしいことであった。

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