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2005/03/15

奥義の地平

批評:神と神性とについて

 エックハルトの思想の一つの目的は、三位一体の神を突破することである。そしてその目標は、彼が「神性」と言っている神秘的な神に迫ることである。
 しかし再び彼によると、魂はこの領域に理性を持ったまま入って行くことはできない。魂がこの内に入ろうとすれば、理性的なものすべてをその外に置き去りにする必要があるのである。
 しかしここで疑問なのは、そのとき魂は何を感じ、また何を理解し、何を語ることができるのかということだ。『神性のうちにあるすべてのもの、それは一であり、一について人は語ることができないからである。』と彼自身言っている。
 ここはまことにグレイゾーンであり、諸々のキリスト教宗派の教理がその奥義へと消えていく地平でもある。カルビニズムもアルミニズムもこの領域においては見分けがつかなくなる。
つまりここは、人間の自由意志と神の主権が解け合い、一つになっているところでなのである。しかしエックハルトにあっては、ここは神と人とが解け合うところともなる。つまり「私を創造した神」と「永遠の昔から神の計画の内にあった私」とが一つになるところなのである。
 しかしここに一つの危険性が存在する。それはこのようなアプローチはキリスト教の絶対性を超越する方向に進み易いと思えるからである。その結果例えば、キリスト教と仏教が融合されるというようなことが起こり得るだろう。しかしそれは聖書の言っていることとは明らかに矛盾する。聖書と矛盾するから即間違っているとは言えないかも知れないが、それを許さないようなキリスト教宗派が少なくないことも事実である。エックハルト自身は、ギリシア哲学者のプラトンを「偉大なる師」と呼んでいる。
 しかしここで私が最も恐れるのは、エックハルトの神突破が、私たちをどのようなところへ連れて行くのかということである。まずそこには、主イエスはおられない。そこでは言わば私たち自身が主イエス(つまり神の独り子)となるのだ。また父なる神も存在しない。そこでは私たちは生まれることもなく、何かを相続することもない。また聖霊も存在しない。そこでは、私たちはもはや何かを成すということはない。すべてが予め成されてしまっているからである。
 このようなところは、福音信仰が喜びを持って思い描く天の御国とはかけ離れたものである。実はそこは「静粛な闇」なのだ。「闇」これは何を表すのか。「消滅」か「退化」か、はてまた「安息」なのか。それは誰にも分からないだろう。わたしはエックハルトにもそれは分からないだろうと思う。なぜかというと彼の言葉によると、その「闇」は、永遠に認識不可能なところであり、実に神さえもそれを完全には認識できないものなのだから。それに元々エックハルトの神は、何かを認識するような神ではない。彼にとって神は、存在を認識するというようなものではなく、存在そのもの、つまり有そのものなのだ。「私は有って有るもの」と聖書の神は言っている。そしてエックハルトのアプローチは、神に帰依する魂が有そのものである神のものと完全になることにより、自らも有そのものとなるという方向性なのだ。しかし「有」そのものとなるとは、いかなることなのか。
 自ら「有」となった魂(すなわちエックハルト)は、いったい何を認識するのだろうか。いや、彼はもはや何も認識することはない。被造物が有そのものとなること、それはすなわち自ら「無」となることを意味するのだから。この矛盾、この混乱はいったい何だろう。エックハルト自身によれば「無」となることは「永遠の旅」だ。魂は無となろうと欲するのだがそれには永遠の時間が必要なのである。つまり魂は永遠に「無」とはなれないのだ。そしてこのことは再び魂は永遠に「有」を完全に取り戻すことはできないことを意味する。
 しかし再び、エックハルトが他の説教で言っているところの『彼がかつてあったし、今もあり、そしてこれからも永遠にそうありつづけるような、永遠なる有を再び取り戻す』ということは、上のような一種不完全な状態そのもののことなのかもしれない。しかしエックハルトは明らかに無限の彼方に思いを馳せることによって、自己と神を同一視している。これは、永遠の命を与えられたものにはそれが可能なのだろう。
 これがエックハルトの神秘神学の全貌だと思う。

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