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2005/02/17

エックハルトの宇宙観

批評:神の言について

 この説教には、エックハルトの宇宙観が良く提示されている。その中心的なものと思われるのが「流出」という概念である。これは、エックハルト自身も「不思議なもの」と形容しているように、彼独特の奇妙な宇宙観である。
 それによると、私たちを含め、すべての被造物は神から流出しながら、神の内部に今もなお留まり続けている。この神から流出するものに大きく二種類ある。一方は物質的なものであり、永遠の昔から神の内に存在していた形に型どって創造されたのである。そしてもう一方は知性的(精神的、霊的)なものである。知性的なものは、さらに神について述語されるものに型どって創造されたものと、そもそも神自身に型どって創造されたものとに分けられ、魂はこのうち後者のように神自身に型どって創造されたのである。魂はまた同時に神の業でもあり、そのために神にきわめて近い被造物であり得る。しかしいくら神に近いと言っても、そこには造ったものと造られたものという歴然とした違いがあり、それがさらに魂が神の業であるということにより、かえって決定的な違いとなるように思われる。
 これに対して御子キリストは、父なる神が生んだのであり、その際に、父から流れ出た、魂を含むすべての被造物は御子に与えられる。そしてこの授けの中で、御子から聖霊が流れ出るのである。この流れ出るという動きにおいては、聖霊は被造物のようでもあるが、肝心なのは流れ出るというあり方ではなく、被造物はそのように神が造ったものであり、聖霊は永遠の昔からそのような姿で存在していたのであり、聖霊もまた神そのものなのである。
 また我々は、神の形に造られたと言うことから神に瓜二つの存在であるが、神から生まれたのではなく、創造されたのである。この被造物としての魂が、あたかも神から生まれたに等しい存在となる方法がある。それは、神が魂の内に御子を生むという方法なのである。このとき魂は、御子としての性質だけでなく、父としての性質をも受け取ることになる。というのは、そのとき魂は父なる神自身をも生む存在となるからである。しかしこれは、魂が神の像に等しいような場においてなされるのであり、それはまた同時に神の内部でもあるのである。
 このような宇宙観を理解するためには、我々の持っている「等しい」とか「生む」とかの概念は根本からの修正を迫られざるを得ない。まずもって認識すべきと思われることは、パウロが言っているように「我々もまた神の内で生きそして活動している」ことであろう。そこで問題は、そのようなある意味で完全な状態のどこに反逆というものが潜んでいるのかということである。エックハルトを読む限り、反逆の入り込む余地はないように思える。しかし現実には罪がこの世を支配し、多くの人がその奴隷になっているのをみる。ところがエックハルトはそれを十分に説明していないように思える。彼が言っているのは、被造物が時間に触れていることにより、永遠からの脱落が始まるのである。これがエックハルトにおける罪の説明と言えるかもしれない。しかしそれでは、時間が悪いものなのだろうか。エックハルトは確かに「時が満ちる」との表現により、時間から解放されることを強く勧める。しかしこの方法は、あまりに非福音的ではないだろうか。しかしそこにもやはりキリスト論の入り込む余地はある。彼によると時間から解放されることと魂の中に御子が誕生することとは同じなのだから。『時が満ちたとき御子が遣わされたのである。』
 この「御子の誕生」が伝道によりもたらされると言えないこともないが、この場合伝道は必要条件ではあっても十分条件ではない。どうもこのあたりに何か重大な問題が潜んでいるようにも思われるのだが。

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