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2005/01/12

キリスト教信仰へのギリシャ哲学の導入

批評:自分の魂を憎むということについて

 「魂」へのエックハルトのアプローチは、聖書とは異なり、非常に哲学的である。『魂の本性および本性的完全性とは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造りいれたあの知性的世界になることであると。自分の本性に至りついているという人がいれば、その人はすべての事物が、神の内にあるように、純粋さの中で形造られているのを自分自身のうちに見出さなければならない。つまり、事物がそれ自身の本性においてあるようにではなく、神の内にあるようにである。』
 私がエックハルトに対してまず疑問に思えるのは、聖書に限定されない自由な思考の結果から多くの結論を出しているように思えるところである。それには多分にプラトン等ギリシア哲学者の影響が感じられる。なぜキリスト教信仰に哲学の導入が必要なのだろうか。キルケゴールはキリスト教信仰に心理学を導入したが、哲学は拒否したのではなかったのか。同じキリスト教信仰への二つのアプローチがどうしてこうも違ってあり得るのか。
 キルケゴールは哲学の静的なところに問題点を見いだした。そしてソクラテス的な倫理思考の限界を示し、心理学的なダイナミックなアプローチにより、人間の罪を先鋭化して描き出すことにより当時のキリスト教会に大きな問題提起をした。この問題提起は、私は現代の教会に対しても同様に有効だと思っている。
 これに対してエックハルトは、実存主義が持っている「多様性の許容」こそが真理探求の足かせとなると考えるのだろう。そして、実存主義的でありながら、同時にまた普遍的であり、さらに加えて聖書に整合するところのキリスト論の立場に立つ神学を展開した。その方法として彼は、プラトンに代表される新しいギリシャ哲学の流れを導入したのである。それにより不可知な対象に対する論理的な一貫したアプローチが可能になった。このギリシャ哲学は、新約聖書がギリシャ語で書かれていることから、すでにある非常にベーシックな面で、キリスト教に影響を与えているように見えるのだが、特に「古い昔に天が存在し、地は神の言(ことば)によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、・・・」ペテロ第二、等に見られるように、聖書の記述にも表れているようだ。
 しかしエックハルトの思想の特異なところは、聖書の記述を遙かに越えてギリシャ哲学を神学の基礎に適用する傾向だろう。その意図は、聖書論に立つ福音信仰が聖書の言葉を聖書のみをもって解釈するのに対して、彼はその限界を提示しているのである。そして、聖書論があたかも成し得ないような、ダイナミックな聖書解釈を展開している。それはあたかも主イエスが旧約聖書をそれまでになく大胆に解き明かされたようである。
 しかし再びこのことに、伝統的な福音信仰は問題を提起するだろう。それは、聖ヨハネが発した「来るべき方はあなたなのですか。」との質問への諸手を上げた肯定による表明である。それはディスペンセーショナリズムとは一線を画するものであり、福音信仰の根幹である。
 エックハルトがなぜ主イエス以後に現れて聖書の新しい解釈を提供しなければならないのか、これが最大の疑問である。その理由として考えられるものがあるとすれば、上でも述べたが、新約聖書の記述におけるギリシャ哲学的な要素の中に歴史を通じて失われてしまったものがあるという可能性であろう。これについては、特に旧約聖書の解釈において、今日の福音主義神学が十分なものを提供できていないように見えることが幾ばくかの説得力を持つように思われる。

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