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2004/11/30

理論と実践の間のギャップ

批評:「なぜという問いのない生き方について」

 この説教でもっとも誤解を受けやすいのは、次の箇所だろう。
 『すると、あなたがたはわたしに次のようにたずねるかもしれない。人間としてのキリストがさし出すことのできるすべてのものを、わたしがすでにこの本性のうちに所有しているのであれば、わたしたちがキリストをあがめ、わたしたちの主として、神として礼拝するということはどこからくるのかと。それは、キリストが神よりわれわれにつかわされた使者であって、わたしたちの浄福をわたしたちに告げ知らせた方であったということによる。キリストがわたしたちに告げ知らせたこの浄福こそ、わたしたちのものであったのである。』
 私たちがキリストを主と崇めるのは、上記の理由のみによるとエックハルトは言う。ここで、「告げ知らせる」ということに関する、彼と私たちの間のギャップを認識する必要がある。
 人の物まねばかりしている者にとっては、この「告げ知らせる」ということは、通常あまり大したことには思われないであろう。しかし、真実を本気で捜し求めている者は、この告げ知らされるということを決定的なことと受け取るだろう。聖書にもあるように、「良きおとずれを告げ知らせる者」の足取りは非常に麗しいのだ。
 つまり、「告げ知らせる」ということはまず、それまでには無かった新しい、良きものをもたらすことである。彼によると、これはキリストがこの世界に来られたことそのものよりも大きなことなのだ。彼はこう言っている。『わたしに金持ちの兄弟がいたとしても、わたしが貧しい男であれば、そのことが何の助けとなるであろうか。』すなわち、「たとえキリストがこの世界に来られようとも、この私がキリストのように生きられないのなら、そのことが何の役に立とうか。」ということだ。聖書に書いてあるように、人が日々キリストの御姿に変えられていくということが起こるためには、まず私が動物のようではなく、神の似姿に創造されていることが必要となる。この場合困難なことは、キリストの救いよりも私の悟りの方が重要視されているように思えることである。そして、私が救われた後のキリストと私の関係の行方等も気になるところである。
 私は、基本的にはエックハルトの神学は、人と神の同等性を根拠に成り立っていると思う。それは殆ど、人が神になることをも許容しているように思える。人と神のただひとつの違いは、創造するものとされるものの違いでしかない。
 しかし再び、この「創造する」ということは、エックハルトにとって非常に特殊な意味を持つ。それは、無から有を生成することであり、神だけに可能とされていることである。
 エックハルトの神学の場合、人の魂が神を生むことさえある。しかし、それは彼の言葉を借りれば、「魂が神の像であるような場で生きるときに魂は生む」のである。つまり、「生む」ということは、「創造」とはまったく異なる概念であり、それゆえに。マリアからキリストが生まれることもある意味では、不自然ではないとも言えよう。
 この境地においては、神と人間の境界線は、かなりぼやけてきている。この境地においては、神は人の魂を慕うあまり、自分の存在性さえも犠牲にするほど人間に近く迫って来られる。しかし、このことは正にクリスマスのできごとと合い通じるところがあるのではないだろうか。
 しかしエックハルトの神学は、なぜこうも難解なのだろう。これを理解する人がはたしてどれだけいるのか。彼自身も言っている。「人がこの真理に等しくならないかぎり、人はこの話を理解することはできないであろうから。」
 なぜそうなのか。それで一体良いのか。それが一番の疑問である。
 そもそも日常生活においては、めまぐるしく生起する様々な事件に臨機応変に対応して行かなければならないが、そのようなことには。エックハルトは対応しないのだろうか。いや、彼が目指していたのは正にそのことに他ならない。彼の神学は、徹底して実践的であり、それは彼の所属していたドミニコ会の設立主旨でもあるという。
 それでは、いかにしてこのことが可能となるのか。その鍵は、エックハルトの神学が、永遠の世界の神学であることである。つまり結論から言えば、彼の言う通りに実践すれば、日常生活のすべてに対応できることになる。彼は、すなわち実践者は、『すべての事物を動かす不動の原因』となるのだから。しかしそれはもちろん、「エックハルトの神学が正しければ」という条件付きでのことである。しかし今日、そのようなことを信じる者がどれだけいるであろうか。「神のようになる」、その理由は、「日常に対処するために」。この矛盾、ギャップを抱えたものがエックハルトの神学と言えよう。しかも、このことは彼の神学にとって決定的な要素なのである。部分的に改良できるような事柄ではないのである。

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