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2004/11/26

「生む」ということの意味について

説教:「魂という神殿について」より(マタイ21:12)

 この説教の内容は、全体的には、福音信仰から見ても、一見批評の余地がないもののように思われる。
 しかし、その中の個々の言葉について言えば若干、そのまま受け入れるのがためらわれるような表現も無いわけではない。
 例えば、『実り多い産出力における父にふさわしい支配力』というような表現は、何か異教的な雰囲気を醸し出すのに十分である。
 しかし、あえて彼を弁護するとすれば、これは従来の福音的な諸方法では成し得なかったところの、神への人間の側からのぎりぎりの接近の試みであると受け取ることもできる。
 しかし再び、エックハルトが提起しているところの、この「生む」という概念、そして、その神と御子、および人への一見制限のない適用は、その概念を受け入れる者を、どこか見知らぬ異質な信仰の領域へと連れ去る恐れがないだろうか。
 しかもこの「生む」という概念は、私の見た限りエックハルトの神学といおうか、信仰の中心的な、きわめて重要な概念であると思われる。それは、神の天地創造の経緯や魂と神の親密な関係、さらに被造物全体の運命をも左右する事柄であるのだ。この「生む」という概念をエックハルトの神学(とあえて言おう)から取り去ったならば、その神学体系は根底から揺らいでしまうに違いない。たぶん神秘主義とは、このような性質を持つものなのだろう。
 しからば、この「生む」という概念が誤ったものではないということが、聖書から説明できるだろうか。
 エックハルト自身は、この概念の根拠として、「主イエスの降誕」を取り上げている。つまり、人であるマリアが神であるイエスを「生んだ」という事実であり、彼はこれを根元的な出来事であるとする。
 これに対して我々福音信仰者は、降誕をどのように受け取っているだろうか。それはもちろん聖書に書いてあるように、「自分を空しくして僕の形をとり」というように、苦難の人生を自ら生きるというへりくだりと人間への愛が現された出来事であった。しかしエックハルトは、このような降誕の意味については(たぶん自明のこととして)まったく触れていない。彼は、それら聖書に書いてあることは、すべて自明として、その次へ進んで行こうとする。しかし再び、それが良いことなのかどうかは、吟味されるべきものであろう。
 この主題に関しては、今はこれくらいにしておこう。その代わり、この「生む」という根元的な事柄については、また他の説教をとりあげた際に再考したいと思っている。

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