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2004/10/21

預言とは、何だろう

私は、むろん始めは信じられなかった。
この世界に預言者と呼ばれる者が、まだ生き残っているなどということは。

教会では、預言者は旧約の時代にいた人々であり、かろうじて、その最後の人が、主イエス・キリストだと習った。

しかし、私はこの目で実際に預言者を見、その声を聞き、この私に語られる預言を聞いた。そのいくつかは、いまもテープに録音されて残っている。
このホームページに記録されているものは、そのテープから起こしたものが多い。(と言っても、全部で4つの内の3つだが。)

預言に興味を持ち、預言について様々な書物を読んだり、預言のセミナーに出席したりするうちに、私の預言に対する考え方は、徐々に変化して行き、現在では、とても自然なものになっているばかりか、私の生活のすべては、預言とも言えるように思えている。

私は、こう考える。預言とは、神の声を聞くことであると。
しかし預言者は、実際、神の声を聞く前にそれを言葉に出すのだそうだ。いや、この言い方も当を得ていない。厳密に言うと、神の声を聞きがらそれを言葉に出すのだ。決して神の声を全部聞いてしまわないうちに、ほんのちょっと聞いたら、そこまでを声に出す。そして、次にまたほんのちょっと聞き、それをすぐに声に出す。というようなことを繰り返しているのだそうだ。
これは、実に信仰生活そのものを良く表しているではないか。神は、人生における御計画を全部は示して下さらない。
私たちは、ただ示されたところまで忠実に歩いて行く。すると神は、さらに先を示される。私たちは、またそこまで歩いて行く。
そして、最終的には、無事に神の御計画の通りに歩ききることができる。

私は、今までに4つの預言をいただく機会にめぐりあった。そして、それらの預言によると、私も預言の賜物をいただいているらしい。
しかし、まだそれを働かせることができない。翼を与えられて、それで飛ぶことができない鳥のようなものだ。
しかし、神の賜物は、みなそのようなものだと思う。いつも、それが与えられていることだけが知らされる。そして、すぐにそれを使うように命じられる。しかし、実際は使い方は理解できていない。高い岩の上から飛び降りなければならなくなったとき、必死で翼を羽ばたかせた時、その使い方が分かるようなものだ。霊の賜物とは、そのようなものだ。もともと、使い方などを説明することはできないのだろう。それが与えられていれば使えるし、与えられていなければ、いくら練習しても無駄なのだ。
そして、それを与えて下さるのは、神お一人なのである。そして、さらに奇妙なことに、それは、願うことにより与えられる。
ここまでくると私の理解をはるかに超えてしまって、到底理解できなくなる。

まあ、霊の世界のことは、そのようなものだと理解している。

それにしても、私に語られた預言をどうしてこのホームページに載せようと思ったのか。それは、まず、読者の方々に預言が今日も有効であることを知っていただきたいからだ。
また、神がどんなにやさしく、愛情豊かで、私たち一人一人のことを細部までご存知であり、気を使うことがおできになるお方だということを知っていただきたいと思ったからだ。神は、1度に何千、何万という人の祈りを聞き、その一つ一つに違った答えを与えることがおできになるお方なのである。

ここに記されている預言を読まれた方が、さらに私の証しを読まれれば、私にとって、与えられた預言が、いかに重要なものであったかがお分かりになると思う。それらの預言は、そのときの私の状況を的確に言い当て、私を励まし、赦し、肯定し、歩むべき道を示し、神の思いを打ち明け、神がいかに私を愛し、長い目で見て、多くの期待をして下さっているかを教えてくれた。
それは、決して私の知られたくない秘密をすっぱ抜くようなものではなく、返って何ものよりも効果的に私の心を射抜き、静かな衝撃と共に、愛を注入し、他のどのようなことによっても不可能な方法で、霊的な力を与えてくれた。

しかし、だからと言って、今の私は定期的に預言を受けなければ霊的に成長できないとは考えていない。
神は、それぞれの成長に応じて、異なった方法により、その人の霊的成長を見守り、助けを与えられるのである。
その人が、預言を必要としていれば、預言者とめぐり合わせくださる。
神は、すべての人の必要をご存知なのである。

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