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2004/10/21

初めて行ったクルセードの恵み

ある日、教会の姉妹から、クルセードというものに誘われた。
私は、意味も分からずについて行った。

それは、東京の日比谷公会堂で、夜の7時ごろから行われた。
そのときは、講師として、ピータワーグナー教授とシンディージェーコブ師が来ていた。

私はその夜、初めてワーシップという讃美を聞いた。ワーシップとは、「礼拝」を意味することを後で知ったが、その讃美は、まさしく礼拝と呼ばれるにふさわしいものであった。
私は、手を挙げて讃美する若い人たちを見た。また、体を動かして踊るように讃美する老年の夫婦を見た。すべての人の目は、主に向けられ(そこにまさにキリストがおられるようであった)、多くの人の手は、高く挙げられ、すべての人の心は、主を讃美していた。私はこの日まで、こんなに麗しい讃美を聞いたことがなかった。それは、まるで天国にいるようなひとときであった。

私は、按手によって倒れる人を見た。「これはいったいなんだろう。」と思った。主が、その人に望み、その人を圧倒するかのようであった。この按手は、夜の集会の終わり近くに行われた。たくさんの人が按手を受けるために、列をつくって待っていた。私を誘ってくれた姉妹もその列に加わっていた。私は、少し怖くて、それに加わろうとはしなかったが、何か憧れのような感じを持った。

それにしても、シンディージェーコブ師の開放の祈りは、なんと力強かったことだろう。彼女が祈りはじめると、その場所に何か力が満ち渡ったようだった。師は、私のような弱い者を攻撃して、罪に縛り付けている悪の霊に向かって、出て行くように命じた。その時、鈍感な私にも、自分の心に何かが起こっていることが感じられたようだった。

次の日は、確か月曜日だったので、会社に出勤したが、なかなか仕事が手につかなかった。その日も、あのクルセードは行われていた。私は、全日の集会のことを思い出していた。あの麗しい讃美が私の心から離れなかった。
今日は、たくさんのやらなければならない仕事があった。しかし、私はもう1度あの集会に行ってみたくなった。どうしたらいいだろう。そう考えているうちに、ふと不思議な感覚に気がついた。自分の思いの中に、「あの場所に帰りたい」という思いがあった。
初めて行った奇妙な集会だったのに、そして、見た事もない光景を目の当たりにし、聞いた事もない祈りを聞き、メッセージも十分理解できなかったのに、私の霊は、あの場所に戻りたいと願っていた。

私は、仕事を定時で切り上げて、とうとうその日、日比谷公会堂に再び来てしまった。
集会では、すでに讃美が始まっていた。たくさんの人が所狭しと座っており、私の座る席は、もはやないようであった。私は、座席を捜して、ちょっと前の方まで行ってみた。そうしたら、なんと前から3列目の席が空いていると言って、案内され、讃美の真っ只中に投げ込まれたような状態になった。私の周りのすべての人が、手を挙げて、熱狂的に讃美を捧げていた。そんな中に投げ込まれて、私は何を考えただろうか。なんと、私は心から感動していた。麗しさのあまり、私も少し主に向かって手を挙げて讃美した。すばらしいひとときだった。きっと、主が私のために取っておいてくださった席だと思った。
その夜も按手の祈りは行われた。私は、今度は勇気を持って列に加わった。舞台に上がり、とうとう祈ってもらう番になった。たくさんの人が横に並んでおり、シンディージェーコブ師は、今夜は、ただ息を吹きかけるだけで、人々が倒れていた。私にも息が掛かるのを感じた。でも、その他には何も感じなかった。私は、何だか拍子抜けしたように一瞬思ったが、そのときどういうわけか、その場に後ろ向きに倒れた。何も抵抗しなかった。私の後ろから私を優しく受け止めてくれた人がいた。私は、本の少しの間横になっていたが、すぐに起き上がった。何も感じなかったように思った。何だかがっかりしたような気持ちにもなったが、その時、私は、主は優しいお方だということを感じた。

そう、主は優しいお方だった。私をすべてご存知であり、私を少しも驚かせるようなことはなさらない。無理に私の心に入ってこられるようなことをなさらない。私の成長に合わせて、限りなくやさしく、私を取り扱ってくださるお方。このお方が、大宇宙を創られたお方なのだ。

おそらく私は、このクルセードで、初めて主というお方を知り始めたのだろう。
今まで、聖書で何回となく、主のことを読んでいた。でも、私は何も知っていなかった。主は、どういうお方かということを。こんなにやさしく、麗しく、すばらしく、力強く、恵み深く、たくましく、気高く、その他考えうるすべての讃美を受けるにふさわしいお方であるとは、聖書のいったいどこに書かれているだろう。そう、それはどこにでも書かれている。でも、それまでの私は、主に捧げられていたその讃美をことごとく飛ばして読んでいたように思った。教理とか神学とか、何かそういう理屈っぽいものにばかり興味を持っていた。でも、主を直接に知ったとき、主を愛し始めたとき、そのような知識はむなしいことが分かった。もし、聖書を丸暗記できたとしても、この主を愛の対象として知ることがなければ、私の信仰はむなしいことが初めて分かった。

私は、どうしてこのクルセードで、主にお会いすることができたのだろうか。
それは、主の恵みであり、私の努力ではない。私のことをすべてご存知の主が、空しかった私の信仰を天から見て、恵みを与えてくださったのだと思っている。

その後、このクルセードを録音したテープを例の姉妹が貸してくれると言うので、しばらく借りて、通勤の車の中で聞いてみた。そうしたら、あの感動が蘇えってきた。あまりにもすばらしいので、一度妻に聴かせてみることにした。でも、私の気が変だと思われたらどうしようとも思った。何しろ、妻はあのクルセードに行かなかったのだから、その場の雰囲気も分かっていない。ただのばか騒ぎに思われたらどうしようとも思った。でも、一度聴かせてみることにした。
何と妻は、あのクルセードのテープを涙を流しながら聞いていたと言った。そして、今度は一緒に行きたいと言ってくれた。

この日から、私たち夫婦のカリスマ信仰への旅が始まったと思っている。

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