« ある姉妹の腰の癒し | トップページ | 救われる »

2004/10/21

教会堂が与えられる

私たち家族が、家の近くの教会に転会したとき、新しい教会には、教会堂がなかった。
そこで、その教会は、カラオケホールで礼拝を守っていた。しかし、そのカラオケホールがあるとき火事で焼けてしまったため、今度は、公民館や地域の自治会館を借りて礼拝をしていた。神が私たちに、地域の自治会からの好意を得させられたので、私たちは、毎日曜日の午前中から午後にかけて、自治会館を借り切ることができたのだった。しかし、地域のお祭り等の時期には、私たちは、締め出されてしまい、あちこちを転々としなければならなかった。まるで、イスラエルが砂漠を流浪していたときのような状況であった。

この教会には、どういうわけか土地だけはあった。しかし、その土地は荒地となっていた。かつて、市街化調整区域を安価で取得したのだったが、その後急に法律が変わり、前面道路が4m以上ないと建物が立てられなくなってしまったため、その土地は、二束三文の値打ちとなり、売る事さえできなくなっていた。毎年、夏になると雑草が茂り、私たちはそれを刈るための重労働をしなければならなかった。役員会では、教会堂取得のために、さまざまな計画を立てたり、物件を見に行ったりしたが、良い手段は見つからなかった。

祈りの中に神に行く道を尋ねる日々の中で、あるみことばが会衆に与えられた。
それは、「私は、砂漠に川を、荒れ野に道を通そう」というみことばだった。
その後、運輸省が、トレーラハウスを車と認定したという情報が役員会に入り、トレーラハウスを会堂にしたらどうかという案が教会員に提示された。
教会員に祈りの要請が出され、祈りの中で、たくさんのみことばが与えられた。わたしには、ダビデの幕屋のみことばが与えられた。そして、教会員の総意により、トレーラハウスの購入が決定した。

発注から3ヶ月後だったと記憶しているが、トレーラハウスがアメリカを横断し、太平洋を船で横断し、横浜港に着く予定だという知らせが入った。しかし、トレーラハウスを教会に導き入れる最後の道がどうもトレーラハウスが通るには細すぎることが分かった。その道の両側にある木を一時移植したり、看板類を一時撤去したりしなければならないが、その辺の土地はを所有しているのは、創価学会の人達だった。私たちは、神に必死で祈った。その結果、神が私たちに創価学会の人の好意を得させられたので、私たちは、植木や看板を一時撤去する許可を得ることができた。

いよいよトレーラハウスが横浜港に着く日になったが、ちょうどそのころ、台風が関東地方に接近しており、海は荒れていた。もし、トレーラハウスの到着が遅れれば、横浜港に借りている倉庫が使えなくなってしまう危険があった。私たちは、必死で祈った。その結果、台風は進路を変更し、横浜港から離れていってしまった。トレーラハウスは、予定通り横浜港に到着し、一時倉庫に納まり、陸送の時を待っていた。

いよいよトレーラハウスが道路の上を走って、私たちの教会の土地にやってくる日になった。到着予定の朝、私たちは、待ちきれずに、まだ暗い内から起きて待っていた。何箇所かの難所を無事通り抜け、やっと教会の土地にトレーラハウスが到着した。
会衆からは、讃美の歌声が湧き起こった。

次の日は、折りたたまれて運ばれてきたトレーラハウスを展開する日であったが、台風通過の後で、まだ気象が不安定であり、天気予報では、突風が吹くと予報されていた。このときも私たちは必死で祈った。その結果、私たちの教会の地域には、少しも強い風が吹かなかった。トレーラハウスは、無事に展開を終わり、完全な形で教会の土地に立っていた。

これまでの数度の奇跡的な現象を体験したのは、私たちだけではなかった。トレーラハウスの販売設置業者の人達は、私たちの周りに起こった度重なる奇跡的なことに感激し、私たちの教会は、神に守られているに違いないと言い、非常な好意を示してくれた。

その後、トレーラハウスに入るための階段とベランダを建造し、それらのペンキを教会員みんなで喜びを持って塗った。
このトレーラハウスの会堂は、道の上を走ってきたので、オン・ザ・ウェイ・チャペルと名付けられた。
それは、また、私たちが天国へ行く途上(オン・ザ・ウェイ)にあるという意味でもあり、また、霊的成長の途上であるという意味も持っている。

|

« ある姉妹の腰の癒し | トップページ | 救われる »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 教会堂が与えられる:

« ある姉妹の腰の癒し | トップページ | 救われる »