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2004/10/21

十一献金の恵み

そのころの私たちの月定献金は、夫婦合わせて15、000円であった。そして、この額は決して少なくないと思っていた。実際、私の通っていた教会でもこんなに捧げている人は、あまりいなかったし、サラリーマンである私は、給料を手にする前にすでに各種の税金を天引きされており、これ以上の出費はできないと思っていた。

私は毎日夜遅くまで会社にいたが、生活水準は向上しなかった。「どうしてこんなに苦しく、みじめなんだろう。」と毎日思っていた。コンピュータソフトウェアの開発に携わっていたが、この仕事は実は体力だけが勝負であることを実感していた。

しかし、ふとした機会に私は、今も神に全収入の10分の1を収めている頑固な人達がいることを知り、そういう人々に興味を持った。そして、何冊かの信仰書を読むうちに、十一献金が神の祝福を受ける現実的な方法であることを知るに至ったが、実際に自分でそれを実行しようとはまだ思わなかった。

ある日の昼休み、私は食事を急いで済ませ、いつものようにオフィースの自分のデスクで聖書を読んでいた。その日の箇所は、旧約聖書のマラキ書第3章。献金の奨励のときによく引用される場所であった。読み進むうちにあの有名な『十分の一の捧げ物をすべて倉に運び・・・・』(マラキ書3章10節)という箇所にきた。「ああ、またこれか。」と思った。かつて私の教会ではこのみことばを献金の奨励に引用すべきかどうかで議論になったことがあった。それだけ影響力のあるみことばである。このみことばはまぎれもなく、十一献金を奨励している。しかし、私の教会では十一献金を奨励することはタブーとされていた。それは、信徒に過度の負担を強いることであり、牧会上好ましくないとされてきた。

私はこのときもこの聖書のみことばを一種重苦しい気分でやりすごし、さらに先に読み進んだ。しかし、次の節を読んだとき、私の心は何か新しい感動を覚えた。そこには、こう書かれていた。『また、わたしはあなたたちのために食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。』(マラキ書3章11節)「いなごだって?」私の頭には、次男がよく虫かごに入れているあの青くて足をひきずる虫の姿が浮かんだ。「もしあれが私の生活を蝕んでいたとしたら?」と、その途端に、なぜ私の生活が苦しく惨めなのかが瞬間的に分かったような気がした。そして、いなごから開放されたときの私の畑のたわわに実った麦の穂の光景が脳裏をかすめた。とっさに、「十一献金。これしかない。」と思った。「でも、どのようにして?・・・・」  しかし神は私の心に、十一献金の決心と共にその方法までも示されたのだった。それは、一瞬のできごとだった。

いつもより少し早く会社を出て帰宅し、妻に言った。「ねえ、神様は今日僕に十一献金をすれば僕の生活を祝福すると語られたと思うんだ。だから、来月から十一献金を実施しないか?」妻はしばらく黙っていてから言った。「そんなの無理じゃない?」「でも、それができる方法があるのさ。神様が教えてくださったんだよ。」「そんなものがあったら教えてほしいわ。」「最後までよく聞いてくれるかい。」「いいわよ。」「まず、子供たちの生命保険を全部やめる。次に僕の小遣いを5、000円減らす。それでOKだ。どうだい?」妻は、押し黙ってしまった。私も妻の顔をじっと見ていた。しばらくの沈黙が続いた。しかしやがて、ついにその顔に笑みが浮かんで言った。「いいわ。やりましょう!」「ハレルヤ!!」僕は思わず叫んでしまった。私に語ってくださった神様は今、妻の心にも同じように語って下さったに違いないと思った。私の心に、こんな妻を持った、何か誇りのようなものが満ちてきた。

それから2カ月ほどたったある日、会社の春闘が妥結し、私の今年度の給与が決まった。それは、もう夏になっていた。家に帰って給与辞令を開けて見た私は、一瞬沈黙するほど驚いてしまった。私の月給はその月、25、000円以上上昇していたのだった。そのころのベースアップの世間相場は、9、000円ほどであったと思う。これにより、5、000円ダウンしていた私の小遣いは、一挙に元通りに復活した。さらに、後日になってのことであるが、子供たちの保険の解約金が全部で70万円ほど戻ってきた。これは、私のかつてからの願いであった、通信神学校の3年分の学費にほぼぴったりの額であった。それからというもの、私の給与は順調な伸びを示している。

それにしても、かつての惨めな生活とくらべて、なんとすべてが変わってしまったことだろうか。私の回りからは、食い荒らすイナゴがいなくなった。あのマラキ書3章のみことばが私の人生に成就した。今私は、心からの喜びをもって、この章をさらに読み進むことができる。

『諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる。』 (マラキ書3章12節)以 上

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コメント

アビガイルさん。コメントありがとうございました。私は、あなたとは違う意見ですが、あなたと議論しようとは思いませんよ。必ずしも実のある話しにならないと思いますし、疲れそうだから。でもコメントは歓迎しますよ。

投稿: ブログの著者 | 2017/04/01 13:54

この部分の十分の一っていうのを、
こういう解釈をするのはとてもおかしな事です。

本来、神の祭司役でもない牧師たちに搾取されている可哀想なプロテスタントの皆さん、どうか目を覚ました方がいいですよ。…とはいえ、私もプロテスタントで同じように信じていた一人なのですが…。

神が一般労働者に示した『十分の一』は、
申命記の14章なのです。つまり…

24 あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、25 それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、26 銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。(24-26節)

十分の一を神の元で共に食べて喜び祝う。
収入の十分の一を神を喜ぶために使いなさいという事です。これが本来の十分の一の捧げものなのです。

そしてこの章を読んでいくと、

『三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。』

そして、プロテスタントでよく言われるその前後関係を良く読んでいくと「マラキ書」は、祭司であるレビ人へと向けた言葉です。今でいうと神に仕える仕事をしている牧師や神父たちという事でしょうか。レビ人が捧げものを正しく捧げるとその民が祝福されました。

「試してみよ」というのは、十分の一を受け取ったレビ人(祭司)が、その十分の一をかすめ取ったり(偽ったり盗んだりせずに)、神に捧げると、その民(今でいうと信徒たち?)が祝福されるという意味です。

祭司(牧師や神父)が、民(信徒たち)の、捧げものを全て偽る事なく捧げ試してみなさい、そうすれば民のぶどう畑が祝福される(信徒たちが祝福される)と言っているのです。

プロテスタントの牧師は、信徒たちから搾取するために十分の一を捧げろと言っているだけだと、1日も早く気づいてください。それは神の御心ではありません。

カトリックは月収の1〜3%を捧げてくださいと言いますが、3年ごとに十分の一、一年毎にすると約3.3%になります。これが本来の聖書的な十分の一の捧げものです。
もちろん、もっと捧げたい人には自由ですし、今は税金も皆が納めているので、1%でも良いのです。

経済的な祝福を約束しているのは、民が捧げたものを、
神に仕える人(牧師)が誤魔化さない場合に、です。

教会を間違えないように気をつけましょう。

イエス様が示した教会は、ペトロの教会です。イエスさまはハッキリと「あなたの上に教会を建てよう」とおっしゃいました。プロテスタントは、このイエス様の言葉を軽んじています。勝手に教会を作って、神への捧げものを盗んでいるのです。本来、神の教会(カトリック)に流れる豊かさが、プロテスタントに流れて搾取されています。

まさに悪魔の仕業としか思えません。
十分の一献金をして祝福されたい…そのお気持ちはわかりますが、神様はそういう事は示しておりません。

全能の神が必ず聴いてくださるという信念や信仰が、たまたま偶然に起きた事(収入が増える)と重なると思い込みが強くなると思います。

でも、神は豊かさを分かち合う事を望んでいるのであって、祝福されて豊かになる事を良しとは思っていません。

神と金と両方に仕える事はできないと神は言っていますが、十分の一献金に心奪われる事は、金に支えているのと同じ事です。

本来の十分の一の捧げものを、
どうか思い出してください。


投稿: アビガイル | 2017/03/31 22:43

牧師が、ある非常に成功しているビジネスマンが「借金があるときこそ、10分の1献金を始めるのにベストだよ。だってお金に困ってるんだから」と言った、というのを聞いて、改めて献金について考え始め、このページにたどりつきました。

人間は神を試すことなんてできないのに、神は唯一、「10分の1献金」で「私を試してみよ」と言っていますね。(挙げておられるマラキ書3:10)このページのたくさんの証を読んで、試してみないのはもったいない、そもそも身勝手な私にとってちょっと痛みを伴う献金は、「神を第一におく」ための非常に現実的な方法であることにも気づきました。日曜日が楽しみです。ありがとうございます。

投稿: らー | 2014/07/17 05:27

「この世の嘘」さん。返信、ありがとうございました。私は、正直言って、あなたのことが好きです。ただ、一言だけ言わせてください。誰が何と言おうと、何をたくらもうと、あなたに対して悪いことを企てようと、関係ないじゃありませんか。そんなことに影響されずに、信じるに値するものは信じ、そうでないものは信じなければ良いのだと思います。心を砕かれる必要もありません。そのようなものすべてに影響されることなく、何の偏見もなく、聖書をもう一度読まれることを希望します。ただ、新改訳聖書ではない聖書でね。

投稿: ブログの作者 | 2009/05/10 23:20

ブログの作者さん、今晩は。
私のコメントは削除されると思っていました、削除せずこの様に返信戴けた事は喜ばしい事です。
旧約ですが、一地方の低レベルな祭司職の者達が作り出した低レベルな神としか思えません。
これではユダヤ人達が何度も神から逃げる分けです。
ユダヤ人の心が間違って居るのでは無く、
祭司職の者達が作り出した神が余にも酷いから。
いずれにしましても、旧約、新約余にも作り過ぎで嘘が酷いです。
私もクリスチャンとして毎朝早く起きて聖書を読み、お祈りをしてました。
なんとか自分の判断を入れずに聖書を心から信じようとしましたが無理でした。
牧師さんの言う(完全に打ちのめされて、心が砕かれないとだめ)と言われました。

これって洗脳の一つのテクニックですよね。
本人の思考能力を低下させ、若しくは不幸な事で思考能力が低下している人を洗脳する、昔から軍事的、政治的に利用されていましたね。
人を愚かだ、愚かだと教え、自分の愚かな知恵で考え判断するなと洗脳する。

しかし、人間は自分で見て、考え、判断する事が正しい。
自分の行った報いは全て本人が受けるのだから。
教会経営者に洗脳されロボットにされるのは御免です。

投稿: この世の嘘 | 2009/05/10 23:02

「この世の嘘」さん、あなたは、何も信じたくないのですね。信じる勇気がないのですね。裏切られるのが怖いのですね。私は、すべてを掛けて、聖書の神を信じます。

投稿: ブログの作者 | 2009/05/10 19:39

旧約の神も、木や鉄で出来た神も皆人間が作り出した物。
人の弱い心に付け込み、絶対超越的な神を考えだし、残忍で妬みの心を持ち、自分を賛美させ気まぐれに情けを見せる。
これは全て歴史上の残忍な権力者や極悪な暴力団が善良なる庶民にしてきた事と同じ。
神を恐れ敬させ、その絶対的神の代理人としての祭司職。
地位、権力、金銭、人間の全ての愚かな欲望を満たす為に。
今は祭司から牧師と言う名の俗人が果てしない欲に蠢いている。
旧約、新約共にカルト宗教のビジネスモデルとなっている。

投稿: この世の嘘 | 2009/05/10 18:18

ホープさん、すばらしい証しをありがとうございます。神様が生きておられることをあらためて実感することができました。

投稿: ブログの作者 | 2009/02/21 16:25

私はカリスマ(っていうのかな?)教会で洗礼を受けた新米クリスチャンです。
私の通う教会では、礼拝の時に献金袋が回ってくるだけで月定献金というのはありません。
教会が献金の額を言うと律法になるからということです。
ただ、牧師は十一献金のパワーというか大きな恵みについては話をされていて、もしあなたがそれを試した時には必ず守られる、と言っておられます。

我家の家計は楽ではなく、ほんとに毎月ぎりぎりでやっているのですが、神様がおっしゃることは何でも試してみたいと思いました。
夫もクリスチャンですが、家計のことを考えると到底無理だと引いてしまっています。
共稼ぎなので、自分の給料の手取り分から十分の一を献金することにしました。

それを給料から取り分け、封筒に入れて「これは十分の一献金です」と口に出したとたん聖霊に包まれ、びっくりしました。十一献金の力を実感した瞬間でした。
数ヶ月続けていて、今のところ経済的にはあまり変化はありませんが、私の一番の願い、両親と子どもの救いはかなえられました。主に感謝します。アーメン

私よりもっと経済的に困窮している友だちに勧めました。なけなしのお金を思い切って振り込んでみたら、同時にとっくに忘れていたお金が振り込まれたそうです^^

投稿: ホープ | 2009/02/21 15:46

さいかわさんコメントありがとうございました。
教会は、献金について、聖書がどう語っているかをはっきりと教えれば良いのではないでしょうか。心に備えのある人が道を示されるために。

投稿: ブログの作者 | 2008/12/09 20:16

素晴らしい祝福を受けられましたね!私はクリスチャンとして、献金は義務でも強制でもないがただ神様の祝福そのものであり、単純に「したほうがいい」ものであることを、日々教えられています。であるからこそとらえ方によっては義務や強制と受け取れる方法を教会が選択した(たとえば月定献金の袋を渡すといったこと)としても、一概に悪いとは言えないと思っています。しかし十一献金について調べようと検索をしてみると、そこには目も当てられないような記述ばかり(ほとんどは「強制するな、するのはカルト宗教だ」という短絡的な内容)で、本当にがっかりしていました、献金の恵みを言葉にするのは難しく、それを人に伝えるのはさらに難しい、「とにかくやってみて」とでもいいたくなるような現実があります。理屈よりも受けた恵みをこのようにひとつひとつあかししていくことが、牧師にはできない、信徒クリスチャンならではの働きと思いました。
素晴らしいあかしをありがとうございます。

投稿: さいかわ | 2008/12/09 10:39

神様は、それぞれの信仰に応じて報いてくださると思います。私のような弱い者には、速やかに。あなたのような強い者には、時を定めて。主が誉め称えられますように。

投稿: ブログの作者 | 2008/02/11 11:45

✚神に感謝。
この証しをありがとございます。十一献金
することは本当に大変です。毎月、私は、誘われます。その時、この証しを目にしました。神様は、私たちの経済を守って下さるために十一献金と言っている。そのことが心にスッと入ってきました。ありがとございます。

投稿: 田川恵子 | 2008/02/11 11:05

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