2018/10/30

キリストの苦しみの欠けたところ

 キリストは、全世界の人々のために死なれたと言われ、また、「あなたの罪は、キリストの十字架により、すでに贖われた」とも言われる。でも、長い間疑問に思っていたことがある。世界の人口が、例えば70億人として、キリストが世界の人々の罪をその十字架の死により購ったのだとすれば、私の分は、その70億分の1に過ぎないのではないか。そして、私への神の愛もやはり70億分の1なのではないか。キリストの死は、それだけに値するのだと言われても、やはり数学科を卒業している私には、どうもピンと来なかった。「そんな風に算数的に考えてはいけない」と言われても、やはりどうも計算が合わないように思えたものだった。。
 ところで、使徒パウロは、聖書の中で次のように言っている。
 『今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1:24)』
 パウロは、なぜこんなことを書いたのだろうか。キリストの苦しみにどこか足りないところがあったとでも言いたいのだろうか。それとも、自分の功績を自慢したかったのだろうか。
 その理由は、「キリストの苦しみも、贖いも、その量にしてみれば、高々人間一人分だった」からである。
 それでは、なぜその高々一人分の死が私にとって70億分の1とはならないのだろうか。それは、まず、キリストご自身は、その贖いを受ける必要がない。彼には、罪がなかったのだから。だから、その一人分の贖いは、無傷のままであり、誰でも使える状態にある。神がそのように決められたのである。
 そして次に、私がそのキリストの死を自分のためだったと信じるまでは、私の罪は、まだ赦されないままであるということだ。そして、私がキリストの十字架の贖いを信じたとき、そのことに免じて、神は、私の罪を赦してくださるのである。だから、ここでもキリストの一人分の贖いは、使われることはない。それは、私と神様の間のことであり、私はキリストにより、神から直接に赦しを受け取り、神の子とされるのである。
 同じように、キリストにおいて、私は、神から直接に愛されている。キリストを救い主として信じたからである。キリストの十字架において表された神の愛は、私に至って70億分の1になるのではない。神は、キリストの十字架において示された愛で、正に私を新たに愛してくださるのである。つまり、キリストの愛は、神の私への愛の「見本」である。本物は、今神が正に私に対して持っておられる、その愛なのである。
 だからパウロは、あのように言い得たのである。 とりとめのない結論ではあるかも知れないが。
 

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2018/10/16

三位一体は、信じるものではない。

 『三位一体の教理内容は、人間の思考を遥かに超えているので、人間はそれを理解することはできない。それは、信じるべきものである。』という言い回しを良く耳にする。みんなが良く知っている福音伝道者でさえもそのように吹聴しているのである。しかし、私はそれは間違えだと思っている。
 無論、三位一体という言葉は聖書に出てこない。しかし、それは聖書の随所にある神に関する記述から、そのように認識されるということは、私も認める。そして、主に異端に対処するためにこの教理がまとめられたということも聞いている。そこで、これらから帰結してくることとして、「三位一体は、人間が考えたものだ」ということである。その大元は、聖書にあるのだが、それら分散したものを抽出してきて、「三位一体」という一本の教理にまとめ上げるということは、人間が考案したのであり、聖書の中には、そのような意図はなかったかも知れない。あるいは、あったかも知れないのだが、それを証明することはできない。そこで、やはり人間が考えたものと言えるだろう。
 それでは次に、この人間が考え出した「三位一体」という教理は、信じるためのものだろうか。否、信じられるべきものは、御言葉以外にはない。あってはならないのである。もしあったら、そのようなものが次から次と考案される余地が出てきて、収拾がつかなくなる。そこで、聖書の正典というものが定められたのだから。
 そこで、「三位一体」は、信じるべきものではない。それでは、それは、どういうものなのか。それは、「考えて理解すべきもの」である。しかし、人間の思考を遥かに超えているものをどうやって考えるのか。実は、ここに悪魔の欺きがあるのである。つまり、「三位一体は、人間の思考を超えてはいない」のである。だって、それは、人間が考え出したものだからである。人間が考え出したものが、人間の思考を遥かに超えているはずはない。そのように悪魔が刷り込んでしまったのである。簡単に言えば、「神とは、父なる神と子なる神、聖霊なる神の合わさったもの」と考えれば良い。あるいは、「混ざり合った」と言えばもっと分かりやすいだろうか。つまり、3つ合わせて1つの神なのである。なぜなら、もし、例えば「子なる神」がおられなければ、もはや聖書の神ではない。「父」についても「聖霊」についても同様である。そして、神は唯一である。三位がそろって初めて一つの神だからである。こんな簡単なことが、どうして難解なのだろうか。聖書の神は、そういう神なのである。
 それでは最後に、そのような単純明快なことが、どうして「難解」と思われるようになったのか。「難解だ」という人は、3=1という公式ばかりに着目している。しかし、上でも述べたように、実は、「神=3」なのである。この「3=1」という考えの中に、すでに三位一体を否定する考えがあったのである。それは、正に悪魔が考え出したことである。極めて美しく、有難い教理を「不合理で無味乾燥で難解なもの」としてしまうためである。そして、この教理を「難解」とする人は、神との人格的な関係を持つことができなくされてしまうのである。「3=1」を理解しようとしたら、そうなってしまうのである。だから、「理解せずに、床の間に飾っとこう」ということになる。そして、それは神との人格的な関係をも棚上げにすることに他ならない。理解しないのだから、人格的な関係など持てる吉もないのである。
 この論述が「とりとめのない話」と思われる方は、コメントしていただきたい。それから、「私も賛成」と言われる方もお願いしたい。これは、私にとって、大きなことである。それは、終わりの日に開かれる大きな真理なのかも知れないとさえ思っているからである。

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2018/09/25

神の人となるために

 「神の人」と言えば、まず想い出すのは、預言者エリアである。彼は、天から火を降したり、雨を止めたりするようなこと、つまり神にしか行えないようなことを行うことができた。そして、主イエスもそうであった。彼は、嵐を沈めたり、パンを増やしたり、悪霊を追い出したり、病を治したりした。そこで、「神の人となる」と言うと、何か大それたことのように思われるかもしれない。その通り、「大それたこと」である。しかし、このことは、私がずっと神に願い求めてきたことなのである。つまり、主イエスに似た者とされることである。
 そして、私が神に願い求めてきたこととは、「誰でも神の人になれる、そんな方法を教えてください」ということであった。そんな方法があるのだろうか。しかし考えてみて欲しい。主イエスは何と言われたのか。「信じる者には、このような徴が伴う」と言われたのである。それは正に、「誰でも神の人になれる」ということでなくして、何であろう。
 しからば、なぜそれが今日、困難なことのように思えるのだろうか。それは、たぶん、主イエスが地上におられたときと現在では、何か状況が変わってしまったことによるのである。それは、何だろうか。「緊張感」だろうか。確かに、あの時は、教会が生まれようとしていたときであり、神の力の特別な傾注が必要だったのかもしれない。しかし、今は終わりの時代である。その終わりの時代に神は、「私の霊をすべての人に注ぐ」と言われているのである。
 そんな風にして、いろいろ考えていて、一つのことに思い当たった。それは、もしかしたら、私たちに問題があるのではないかということである。というのも、神の側からの恵みは、すでにすべて与えられたと考えられる。主イエスは、十字架上で、「完了した」と言われた。それゆえ、これ以上の恵みが無いのだとすれば、原因は私たちの方にあると考えられるのである。
 それでは、その原因、つまり、私たちが神の人になるのを阻止している原因とは、何なのか。それは、私たちがそのような状態になっていないということである。それでは、「そのような状態」とは何か。それは、「神から恵みを受けるに相応しい状態」ということである。そして、再びそれは、「神がそのように意図された状態」ということである。
 神は、すべての恵みを「御子イエス」により、彼を通して私たちに与えられるのである。そのためには、私たちは、御子に似た者となっている必要がある。そして再び、それは、難しいことではなく、そのようになるための道、方法が完全に与えられているということなのである。
 まず、私たちにできることとして、毎日聖書を読み、み言葉を心に蓄えることである。次に、毎朝起きたら、まず神を礼拝することである。なぜなら、そのような人こそが、神の恵みを受けるに相応しい人であり、主イエスご自身がそのように生きられたと思われるからである。それから、言葉を軽率に使わないこと。主イエスの語った言葉は、すべて成就したのであり、神の人にとって、言葉とはそのようなものだからである。それから、神に完全に信頼を置くこと、貧しい人、苦難の中にある人を思いやり、彼らのために祈ること。等々である。
 しかし、問題は、これらのことを一日どれだけの時間、どのようにミックスして行えば良いのか。また、時間的な配分や目的別の実施方法等々であり、つまり、神が最初にどのように意図され、今日においてもどのように意図されているのかということである。これらを、聖書のみ言葉に即して、戦略的に配合、実施しなければならない。そしてそれは、難しいことではなく、誰にでもできることであるはずなのである。ただ、歴史の中で、それがどのようにしてだか分からないが、困難な道に変質されてしまった。この道における恵みと励ましに関する洞察が掻き消され、変わりに賜物への根拠のない願望だけが強調されるようになってしまった。それはきっと悪魔の仕業に違いない。
 実際、まったく、とりとめのない話なのだが。。。

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