2019/03/17

神の心にかなう者となるために

 エックハルトは、この説教を「魂と神の類似性に関する言及」から始めているように見える。彼は、「まことに、神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである」と言う。衝撃的な言葉ではあるが、彼は実はこの言葉で「魂と神の類似性」を言っているのではなく、文字通り「魂と神の近さ」を言っているのである。しかしその次に彼は、「神がみずからを認識するときのその同じ認識が、自由となったおのおのの精神のなす認識なのであり、これらはけっして別なものではない」と続ける。そして、これもまた「魂と神の類似性」を意味するものではなく、「魂と神、双方の認識という働きの類似性」を言っているのである。そして次には、「神的光」というものに触れ、「それが魂の諸力の内に射しこむことはありえない」と語り、魂と神とを完全に遮断するのである。しかしまた次で、「修練と浄化によっては、それらは受容するようにもなりえるのである」と言う。そして最後に再び、「なるほどその光は内面の光に等しいのではあるが、しかし内面の光ではない」と両者の区別を明確にするのである。エックハルトの言葉は、細心の注意を払って理解しなければならない。つまり彼は、ここで彼の説教を実は「魂と神の類似性」で始めているのではなく、「魂と神の区別性」で始めているということなのである。
 そのひとつの意図は、恵みにおける御子の役割の強調である。「さて、子を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と彼は言う。そしてまた、「神の独り子と魂との間にはいかなる区別もない」と語る。これをもってして、安易な神学と早合点する必要はない。「区別がない」と言っているのであり、「同じもの」と言っているのではないのだから。
 エックハルトにおいては、まったく同じにできている2つのものがあったとしても、それらは同じものなのではなく、たまたま似ている2つの異なるものなのである。しかし、また同時に、それらの似ている2つのものは、「似ている」ということにより、同じように動くことが保証されている。そこで、それら「瓜二つに似ているが、まったく個別である2つのもの」の間には、非常に緊密な関係が存在することになるのであり、その似ている2つのものが、「魂と神」ということなのである。
 そのように魂にとって、複雑に近くて遠い、神という存在の心にかなう者となるために、エックハルトは、一つの方法論を提唱する。それは、「自分自身の内に鍵をかけて、しっかりと閉じこもる」という戦術である。それは、気持ちを散乱させる、この世界の種々雑多なものから逃れて、神が自分の内に造ってくださった聖なる類似性に集中するということである。その「聖なる類似性」とは、すなわち「三位一体」である。つまり、御子が完全な人となられたという事実にあくまで立脚し、御子における神との合一を模索するのである。
 彼は祈る、「わたしたちが自分を、知性の日と時とにおいて、知恵の日において、義の日において、そして浄福の日において、内面に見出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン。」

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2019/03/15

『神をどのように知るべきか』ということについて

 エックハルトはこの説教で、おそらくこれまでの説教の中で、一番強い積極性について語っている。それは「神を知る」ということである。
 しかし、ここでまず問題なのは、「神を知る」ということが、積極性として取り扱えるものかどうか。つまりそれは、そもそもどの程度、自分の自由になるべきものなのだろうかということである。ごく一般的には「知る」ことは、受動的なことであり、「何かの拍子に、或る事に関する知識を得る」というようなことを「知る」と言っているようなのだからである。しかし、ここでエックハルトが言っていることは、むしろ「認識する」ということであり、そのために彼は、24人の師を登場させる。そして、彼らが真剣に「神とは何か」と言って議論した中から、いくつか取り上げて解説しているのである。しかもその解説において、彼らの説明を半否定的に取り上げることにより、それをさらに発展、展開しているのである。その意図は、人が「神を知る」ということの努力の限界を示すと共に、さらに「神を認識すること」への積極的なアプローチの道筋を示すためであると考えられ、私には、これこそが「カリスマ信仰」の真髄と思われるのである。
 ユダヤ教は、律法により、また正統主義や福音主義は、神学により神を認識しようとする。しかし、カリスマ信仰は、むしろ「神と生きる」ことにより神を認識しようとするのである。
 エックハルトは、神へのアプローチの道筋を4つの方向性から提示する。第一は、時間的な道であり、「今」という瞬間に集中するものである。「この今、その内で神は世界を創造したのであるが、それはわたしが現在話しをしているこの今と同じほど、この現在の時間に近いものであり、最後の審判の日も、昨日のようにこの今に近いものなのである」と彼は語る。神を認識するのは、過去の経験でも、未来の展望でもなく、この今を真剣に生きる中でしか得られないと彼は言うのである。
 第二は、概念的な道であり、「神を愛するあり方とは、あり方なきあり方である」と彼は言う。というのも「神は有をはるかに高く超えている」からであり、そのような否定論的な方法によらずには、神を認識できないということである。
 第三は、倫理的な道であり、「神は、善でもなく、良きものでもない」とエックハルトは言う。より良いものをと捜し求めても、神にまで辿り着くことはできない。「神は、善をもはるかに超えている」からである。
 第四は、関係としての道であり、私たち人間が神から何を受取ることができるかということである。彼は、「神は何をおいても自分自身を与える」という。つまり、私たちが神から受取れる具体的なものは何もなく、受取ることができるものがあるとすれば、それは神ご自身だけだということである。
 以上の結論として、エックハルトによれば、神は時間的にも概念的にも倫理的にも関係的にも、私たちから完全に隔てられており、人間には認識し得ない対象であり、私たちの方から神に近づく方法は、皆無なのである。それでは彼は私たちに、神を知るために、どのような方法を提案するのであろうか。彼は「私たちは、神の譬え言葉でなければならない」という。それは、どういう意味であろうか。それは実に、「神の真似をすること」なのである。
 しかし、知ることのできない対象を、いったいどのようにして真似ることができるのであろうか。それは、彼独特の方法論なのであるが、私たちが神から戴いた賜物によってである。彼は「私たちは、神をどのように愛したら良いのだろうか」と問う。そして、「それは、いつも愛しているように愛するだけである」と言うのである。つまり、神を愛する決まった方法など無いと彼は言うのである。つまり、神を知る方法を記述した途端に、それは嘘になってしまう。私たちは、神を「記述しない方法」で知らなければならず、神を「思い浮かべない方法」で愛さなければならないのである。そんなことができるのだろうか。無論できるのである。実際、私たちの子どもは、それをやっている。彼らは、誰からも教わらずに、自分の親を愛することができるし、自分の親を知ることができるのである。そしてそれは、究極的には、私たちの「真似をする」ことによるのである。
 私たちが、主イエスの言われるように、神に対して「子どものように」なることができるなら、そして、それは主イエスが既に私たちに対して成し遂げてくださったことなのではあるが、私たちは、完全な方法で神を知り、愛することができるのである。

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2019/03/10

『神の前にどのように死と向き合うか』ということについて

 これまで、エックハルトのドイツ語説教から、神の前における「ある(存在する)」、「立つ(留まる)」、「生きる(活動する)」という3つの積極性について考察してきた。これらは、順を追って段々と勢いが強められてきており、「生きる」ということに至っては、最大の積極性を持っているように思われる。そして、この4つ目の説教が「死(終わり)」について語っているのは、また大きな意味を持っているように思えるのである。エックハルトはここで、「死」というものの意味について、4つ挙げている。そしてそれらは、この「死」というものがまた、「生」以上に積極的なものであり得るということを納得させるような内容である。
 まず第一にそれは「人生の終わり」ということである。
 神は人間に有限の人生を与えられた。そして、その一定期間の従順の報酬として、その後に永遠の命を与えられるのである。ただし、この場合の従順とは、律法を守ることではなく、救い主を信じ続けることである。
 また第二には「生命の終焉」ということである。
 神が人生を有限にされたことは、この世の命が「死すべきもの」であり、それを失うことを恐れる必要はないということを意味している。それゆえに私たちは、究極的にはこの世の恐れから解放されているのである。
 第三には、それが私たちにとって「究極のあり方」であるということである。
 キリスト信仰のあるべき方向性は、「この世を軽んじることにより、神を重んじる」ということであり、この世と神の両方を同時に愛することはできない。神を愛するためには、この世を捨てるしかないのである。しかし、この世は死すべきものであり、そのように価値のないものであるなら、なぜそれが人をかくまで夢中にするのであろうか。それは、人の心が罪に染まっているために、彼が神に少しも心を向けることがないからである。しかし、もし彼が神に向き直るなら、そのときに覆いは取り除かれるのである。
 そして第四には、「新しい始まり」ということである。
 「死はつまり彼らにひとつの有を与えるのである」とエックハルトは語る。そしてまた、「神の最も固有な本質は有である」と言う。つまり、彼らがこの世に死に、神にのみ望みを置くようになったとき、彼らは神の固有の性質であるところの「有」を受け取るのであり、それが永遠の命なのである。
 この命を受けるために、神に従うことを妨げるものある。エックハルトによれば、その第一は「時間性」である。つまり、私たちが目指すべきものは、「向上する信仰」ではなく、「不動の信仰」なのである。第二には、「対立性」である。「正義と悪」、「律法と罪」、「真と偽」等々、対立する構図からは、真理はもたらされない。大切なのは「純粋性」であり、「追求」ではなく「完全なる受容」である。
 つまり、神と私たちの接点は、「死」に象徴されるように不連続なものであり、そこを通ってしか神の元へ行くことはできないということである。しかしそれは、単なる概念的なものではなく、神が主イエスにより、私たちに与えられた賜物であり、実際に私たちはそれをカリスマとして持っているのである。

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