2009/07/03

神に仕える日々

神の根底にまで究めゆく力について
 人はどのようにして、その生涯を神に喜ばれる日々とすることができるのだろうか。自分の生きている意味を知ることができればそれも可能だろう。そのようにして、「義とは何か」を知ることができたなら。しかしエックハルトによれば、「義とは、真理における一切の事物の原因のこと」なのである。そして、それを知ることできるためには、すなわち賢くなるためには、人はすべての事物を抜け出て、一切の事物とその原因とを超え出て行く必要があるとエックハルトは言うのである。
 しかしそのようにして、すべてを超越しようとする者は、いったいどこに向って走っているのか。というのも、エックハルトによれば、「神は神の全神性をたずさえて魂の根底にいる」というのだからである。そこで彼に必要なことは、エックハルトの言うように、外へと向かう超越方法ではなく、むしろ自分の内へと向かうものすなわち、「造られた一切の事物から自由となり、真理の真なる鍵をかけて、自分自身の内にしっかりと閉じ籠ること」なのである。そして、その彼自身の魂の最内奥において、彼は一つの決定的な出来事が起こるのを期待しているのである。それは、父がその独り子を「現なる今」において生み、そしてそのことにより彼の魂も神の内で再び生まれることなのである。
 この領域においては、時間という概念はもはや一般的な意味をもたない。もともと神にあっては、1日とか1年とかの期間は、私たちが考えるような意味を持ってはいない。神にあっては、一日は千年のようであり、また千年は一日のようなものだからである。つまり、この領域においては、人と神との関係こそがすべてなのであり、その意味でそこには、「魂の日」と「神の日」以外には時間的に意味のあるものは存在しない。そしてこの2つの日、すなわち「魂の日」と「神の日」は、「現なる今」において出会うのであり、この「現なる今」において、神は御言葉により全宇宙を再創造するのであり、そのようにして、万物の意味は保たれ、天は運航し、歴史は展開しているのである。というのも万物は、御子により、ただ御子のために創造されたのだから。
 御子によりもう一度新しく生まれた彼の魂は、まさにこの日の内に生き続けるのであり、そこで彼は、神の独り子とひとつになって、その独り子のように生きるのである。そのとき彼の日々は、ことごとく神の御旨に適うものとなる。そして彼は、御子にあって、時間と空間を超えて一切の事物を認識する。そのとき彼は、神から義なる者と認められ、箴言にあるように「知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜び」となる。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが自分を、知性の日と時とにおいて、知恵の日において、義の日において、そして淨福の日において、内面に見出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン。」

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2009/07/07

神に仕える距離

純然たる無である被造物について
 この世界で実施される事業というものは、たとえ小さなものであっても、そこに何かしら成果が期待されているものである。そこで信仰者も、自分が神に仕えるという努力に対してその成果を期待するのは自然なことだろう。そして、そのような思いは、神に真剣に仕えようとしている人ほど強いように思える。彼は、綿密な計画を立て、それを着実に実施して行くことを好むに違いない。主イエスも家を建てる人を例にとって、計画の必要性について教えておられる。そして、そのようにしてもたらされる成果が神の御旨に叶うなら、それはすばらしいことに違いない。しかし、不幸にしてそうならない場合も少なくない。その原因は、彼の計画が何か神以外の目的を持っているからだとエックハルトは言う。ここに一つの困難がある。神に仕えたいと熱心に望むほど、自分の思いもまた多くなりがちだということである。それは彼が、時間性と身体性、及び多数性を持っていることに起因する。これら三つのものが彼に、戦略を練り、自己をしっかりと持ち、多くの可能性を探求することを強いるからである。しかし、神と心を一つにしようと願う者にとって、自分の考え出す戦略は、むしろ余計なものである。というのは、彼に示された神の御心は、必ず実現するからであり、すべての妨害は無力にされ、彼の出て行くところどこででも、神は彼に勝利を与えられるからである。また、十字架を負って自分に死に、主に従う彼には、新しい心が与えられる。それは、自分への執着から彼を解放し、すべてを神に委ねることを可能にする。さらに、彼には神から大きな可能性とビジョンが与えられているのであるが、それは彼の心が膨張し発散し、とりとめのないものになるためではなく、むしろ一人の神の僕として、より具体的なものとなるためなのである。
 キルケゴールも言っているが、私たちから神への接近は、特殊な努力により行われる必要がある。というのは、霊的な世界の距離感は、この世のものとは全く異なっているからである。この世においては、ある類稀な目標へ接近するためには、大いなる自己努力が必要となる。しかし、霊的な世界にあっては、そのような自己努力は、それがそのまま彼が神から遠ざかって行くことを意味しているのである。そこで、神に近づこうと思うなら、エックハルトの言うように、返ってこの世界におけるすべての探求をあきらめ、すべてから身を引き、自己の内に閉じこもることが求められるのであり、そのときあなたは、神の御胸に抱かれている自分を発見するのである。
 この接近は、この世界における接近と異なり、距離に基づくものではない。信仰者の意識が彼の内にある高次の知性に向けられたとき、突然に彼がその状態にあることが知覚されるのである。ここに至るためには、過程というものは存在せず、それは突然起こらなければならないのであり、認識の光りが次第に増大していくということもないのである。さらに、この接近は、あなたから神へというよりも、むしろ神からあなたへと言うべきものである。それには、どうしても神の恩寵が必要だからである。そこで、これはすでに探求ではなく、神とあなたの「関係」なのであり、ただそれのみが、神のこの世界に対するご計画を完成に向かって進めるのである。
 エックハルトは祈る、「すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的御寵が私たちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/07/08

神に仕える報酬

神のために神を捨て去るということについて
 神は聖書の中に、ご自身を恵み深いお方として啓示しておられる。神は、恵もうと思う者を一方的に選び、約束を与え、その保証として契約を結び、それを実現に至らせられる。それは、旧約聖書におけるアブラハムからモーセ、そしてヨシュアに至る約束の地獲得の歴史に現されている。
 しかし、これらのことが文字通り成就した後の歴史においては、神はさらにすばらしいものをご自身の民イスラエルに与えようとされたのである。それは、ダビデが張った賛美の幕屋とソロモンが建設した神殿の内に啓示された神の臨在を通して、ご自身をイスラエル民族に与えるということなのである。しかしそれは、彼らの背信によるバビロン捕囚により、一時挫折してしまうのであるが、再び時至り、神がご自身の御子を地上に遣わされるに及んで、歴史を通して絶えることなく流れ続けていた、神の大いなる愛が人類全体に完全な形で啓示されるに至ったのである。
 そしてこれらの外的な啓示は、そのすぐ後に起こった聖霊の傾注により、内的でさらに完全な啓示として、信仰者個人々々に開示されたのである。それによると、真の約束の地とは、神の一人子イエス・キリストであり、彼を得る者は、彼と共に万物をも相続するということにほかならない。そして、これこそがアダムから始まる人類の創造と堕落、選びと救済史における到達点なのである。
 しかし今日に至っても、私たちの心には完全な平安はなく、私たちは未だに約束の地を手にしてはいない。それでは、私たちの受けるべき約束の地は、どこにあるのか。それはまさに、私たちの内におられる神ご自身なのであり、そのまことの神との真の関係に至るべき私たちの心の王国のことなのである。そして、神が老年になったヨシュアに言われたように、私たちの征服すべき地は、私たちの心の王国の中に、なお多く残されたままなのである。
 しかし、キリストが十字架上で「完了した」と言われたように、すべての購いの業は、すでにキリストによって完成したのであり、私たちはすでにキリストと共に戦いの勝利者となっているのである。そこで、エックハルトが言うように、私たちには神からの大いなる力が与えられており、キリストの勝ち取られた勝利により、私たちは、自分の心の王国において、エペソ人への手紙に記されているような霊的な武具を身につけて、出て行く所どこででも神により勝利を得ることができるのである。そして、かつて信仰の父アブラハムやイスラエル民族がその敵と戦い、多くの財産を略奪し、その結果非常に富む者となったように、心の王国において私たちが獲得する財産もまた計り知れないほど大きいのであり、神は聖霊によりそれを私たちの心に啓示されるのである。
 ああしかし、ここでエックハルトが言っていることは、上で述べたことを前提として初めて理解できるのであるが、これらのことにより啓示された天的な宝のあまりの大きさのゆえに、神を心から愛し、自らの神への愛を余すところなく表したいと強く願う者は、この啓示された無尽蔵の富さえも神のためにあきらめることをあえて決心するに至るのである。ああしかし再び、この無尽蔵の富とは何なのか。おおそれは、それは、実に神ご自身に他ならない。神が愛する者に与えようとされるのは、神ご自身なのであるから。それが「神は愛なり」ということの意味なのである。「愛」とは「関係」である。そして、「神をあきらめる」とは、「神との関係を成就する」ということすなわち「完成する」ということに他ならない。それは、実にアダムの堕落前の状態への回帰なのであり、それこそが約束の地の奪回なのである。

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