2019/05/22

恵みに留まり続けるために

 主イエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:25)と言われた。エックハルトは、ここで言われている「命」とは「魂」のことだと言う。つまり、ここで言われている「愛」の対象は、律法が命じる「自分を愛するように、隣人を愛せよ」というときの対象とは異なるものなのであり、それゆえ、これらの言葉は互いに矛盾しないのである。

 ところで「魂」とは、何であろうか。エックハルトは、「魂という言葉は、魂の根底を意味するものでもなく、魂の本性を言い当てているものでもない」と言っている。魂とは、それほどに捉えどころのないものなのであり、それゆえに魂を、すなわち自分を愛するということもまた捉えどころのないものであり得るのである。そのように捉えどころのない魂を(すなわち自分を)無防備に愛することは、かえって自分を甘やかしてしまい、真理や正義から目を逸らせてしまうことにもなりかねない。そうなったら、むしろ自分の命を損なうことになる危険性があるというのが主イエスの言わんとするところであろう。

 「魂を憎まなければならない」もう一つの理由は、魂が未完成なものであることである。しかもそれは、人が生涯を賭けて作り上げる作品などではなく、実に彼自身なのである。それゆえ、そこにはほんの少しの妥協も許されない。彼が神に創造されたあるべき姿に達するまで、どのような妥協もすべきではないのであり、彼は、彼自身の完成に向けて、自分の生涯をひた走らなければならないのである。

 以上のことの他に、もう一つ忘れてはならないことは「魂と神との関係」である。つまり、魂は神との関係において完成を目指しているということである。そして、それは再び、上記のこと、すなわち「自分の魂を憎む」ということは、「自分を正しく裁くこと」に他ならないということであり、これこそがカリスマ信仰の真髄と言えるだろう。

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2019/05/13

神と似た者となるために

 主イエスは、「私を見た者は、父を見たのである。」と言われた。そして、クリスチャンにとって主イエスは、一つの究極的な目標であり、彼は私たちの霊的な長子でもある。私たちは、日々主の御姿に、聖霊によって変えられていくのであり、それが願いでもある。これらを言い換えると、私たちの究極目標は神であり、神に似る者とされることが私たちの願いだと言える。つまり、私たちが長子である主イエスを目指すのは、父なる神に似た者とされるためなのであり、そのために神は、御子を私たちに与えられたのである。

 エックハルトは語る、「神がなすわざのすべては、わたしたちが独り子となるためのものなのである」と。そして、「わたしたちが独り子となっているのを神が見るや、神は激しくわたしたちへと迫り来る。神がわたしたちに神の神性のすべての深淵と、神の有と本性との豊かさとを顕そうとして、あたかも神の神的有が神から砕けて、みずから無に帰そうとするかのように、急ぎ迫り来るのである」と。このことから、エックハルトがカリスマ信仰だったことが明確に分かる。彼は、神から来る電気のような力に触れられ、その場に倒れ伏したのに違いない。しかし彼はまた、その陶酔の中に決して留まってはいなかった。そして、さらに次の段階へと突き進み、「神は等しさそのものである」と語るのである。それゆえ神は、御子においてご自身を私たちに分け与えられた、いや、ご自身のすべてを私たちに与えられたのである。御子は神にとってすべてのすべてだからであり、そして、その御子と私たちが等しくなることを切に願っておられるのである。

 しかし、エックハルトはさらに先へ進みゆく。彼は、「神の愛に報いるために何をすべきか」と考えるのである。私たちをご自身と等しくするために、大きな犠牲を払われた神に報いることなど、とうてい出来そうにないのだが。というのも、私たちが譬えどんな努力をしたとしても、神はそのようなことを期待してはおられないはずである。なぜなら、神の願いが、ご自身を私たちに与え尽くすことならば、私たちがそれに対して、何かをすることは、その神の願いに抵抗することになるからである。それでは、どうすれば良いのか。エックハルトは、実に「私たちに何か他に成すべきことがあるとすれば、それは、私たちが神を捨て去ることだ」と語るのである。

 それは、いったいどういうことか。「神を捨て去る」とは、「神から何も望まない。受け取らない。」ということである。しかしそれは、「何も望まなかった。受け取らなかった。」ということではなく、「これ以上、何も望まない。これ以上、何も受け取らない。」ということであり、すでに成された神からの恵みを100パーセント肯定するものであり、これが究極的に、神の御姿に変えられることであり、神に似た者とされることなのである。

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2019/03/28

神の恩寵を受けるために

 もちろん人は、イエス・キリストを救い主と信じれば、誰でも天国へ入れるのであり、それ以上の恵みはない。しかし、私たちがこの世界で生きる上で、神の特別な守りと助けが必要となることがあり、それを受けられるかどうかは、また別問題なのである。つまり、例えそれを受けられなくても、私たちの救いには、何の問題もないのだから、それを受けられる場合と受けられない場合があり得るのであり、そのことをここで問題にしているのである。

 エックハルトは、それを「恩寵」と呼んでおり、神は御心のままにそれを特定の人に注がれるのである。しかし、「御心のままに」と言っても、それは神の気まぐれではなく、そこにある原則がある。神は、正しいお方だから、正しい判断によりそれを与えられるのであり、それゆえ、誤解を恐れずに言えば、それはある程度予測がつくものなのである。

 では、神はどのような人に恩寵を注がれるのかと言うと、一言で言えば、「御子に似ている人」である。神は、この世界を救うために御子を遣わされたのであり、また私たちに、すべてを御子を通して与えられるからである。そして、エックハルトによれば、私たちが御子に似るためには、完全に自己を放棄しなければならない。そのようにして、神が御子を通して与えてくださる恵みのみに自分をゆだねるのである。もし私たちが、何かこの世のものに心を引かれるなら、そのとき私たちは、神が御子を通して与えてくださっている恵みを受け損なうことになり、その部分だけ御子と似ない存在となる。逆に、私たちが自分のすべてを明け渡して、神の恵みを完全に受け取るなら、私たちは御子に似たものとされるのであり、神は、その御子に似た私たちに、完全に恩寵を注がれるのである。

 そのように、エックハルトによれば、私たちが神から恩寵を受けられるかどうかは、私たちの行う修行や修練、勉強等々の努力によるのではなく、自己をいかに放棄し、御子に似た者にされるかに掛かっているのである。つまり、私たちの側からの「神に気に入られるような努力」は、一切無駄であり、この世界には、神の気に入るものは、「御子」以外にはないということである。そして、神はこの「御子」に一切を与えられたのであり、私たちも神の愛される「御子」として、その一切を受け取れるのである。このように言い切るところがエックハルトの少し異端的と言われ得るところでもあるが、それは徹底した論法である。彼によれば、実に「聖霊」さえもこの「授け」の中で流れ出ることになるのである。つまり、従来の神学では、御子イエスが天に帰り、そこから地上にいる私たちへと聖霊を遣わされるのであったが、エックハルトは、「父が子を生むとき、子に一切を与えられるのであり、その授けの中で、聖霊が流れ出る」と言っている。つまり、聖霊がこの世界をゆらゆらと漂っておられ、あるときそれが私たちの心の中に入るのではなく、「私たちが子となるとき、神の恩寵が注ぎ込まれ、同時に聖霊が流れ出る」のである。それゆえ、「恩寵」は、「働き」のためであるが、その「働き」とは、「御子の働き」のことなのである。

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