2008/07/02

交わりは、理想ではなく、神的な現実である

 人はとかく、人間関係に理想を求めるものだ。そしてときには、そのような理想のうち、社会では通常、実現が困難なことを、信徒の交わりの中に求めることがあるかもしれない。またときには、自分が培ってきた信仰が描く理想像を教会の中に実現しようと思うかもしれない。しかしボンヘッファーは、交わりには本来、理想像などはなく、それは実は、神的な現実なのだと言う。その意味は、それが追求したり、創り出したりするものではなく、すでにそこにあるものを再認識すべきものだという意味である。それゆえ、どのように高尚な交わりの形であっても、それが人の心の産物であるかぎり、遅かれ早かれ、神がそれを幻滅によって打ち砕かれることになると彼は言う。なぜなら、それは幻影に過ぎないからである。そして、その幻滅は、交わりに投影され、ときには不幸にも、兄弟姉妹に投影されて、そこに分裂を生み、悲しい痕跡を残すことにもなる。そして、そうなったときに初めて、自分がなにか理想的な交わりを作り上げようとしていたことに気付き、つまり原因は、兄弟姉妹や教会の性質などにではなく、当の自分の心にあったことに気付き、その結果、神の前にへりくだることにより、キリストにおける罪の赦しがそこに働き、そのようにして、彼ボンヘッファーが言うように、「夢想を作り出す者の朝靄が消えてなくなるところ、そこにキリスト者の交わりの明るい朝が明ける」ということが起こり得るのである。
 しかし、これらのことは、決して無駄なことではない。というのは、上述のように、交わりの祝福は、それまでに無かった何か新しい作られた要素なのではなく、それは賜物であり、すでにあるものを再認識するところにあるからである。そして、そのことが真に理解されたとき、そこにキリストの無尽蔵の恵みが音を立てて流れ込んでくる。ああ、それは何という麗しい訪れ、芳しい香りであろうか。そのとき、すべてがあるべき姿に戻り、栄光が神に帰されるのである。そして、私たちは知ることになる。キリストが私たちの交わりの中におられ、教会が、すなわち私たちがキリストの御体であることを。そして、その祝福を保ち続けることは、難しいことではない。それは、お互いの間の感謝によって、またそれらの総合としての神への感謝によって、私たちはますます神の恵みの深さ、広さ、高さを認識することになるからである。

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2008/07/03

交わりは、人間的でなく、霊的現実である

 「キリスト者の交わりは、ただキリストにのみ基づいており、この点において、他のすべての共同体と端的に異なっている」とボンヘッファーは言う。それは、人間存在の根底に根ざしている。人間は、本来一人であり、根本的には、ただキリストだけが彼の友だということである。そして、このキリストとの交わりを深め、継続し、発展させるために、他の人間的な交わりが仕えるべきなのである。
 ボンヘッファーは、彼独自の極めて繊細な思考をもって、霊的な事柄を人間的なものから区別する。「人間的な回心」、「人間的な隣人愛」、「人間的な愛」、それら人間的なものと霊的なそれらのものとの間の違いを感じ取り、それらを明確に区別するのである。そのときに彼が用いる武器は、「時間」である。時が経過し、状況が変化するときにも、変わらずに存続するものこそが霊的なものであると彼は言う。そして彼の認識力は、この時間の経過を先取りしているのである。聖書に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とあるが、ボンヘッファーは、この信仰を、霊的なものと人間的なものとを区別するための聖なる道具として用いるのである。そして、彼は言う、「人間的なものは、それがどのように高尚なもの、理想的なもの、卓越したものであっても、それは究極的には、自己愛である」と。そして、その自己愛が生み出すものは、他者への強制であり、支配であり、虐げであり、また同時に従属であり、制約であり、喪失である。
 それに対して真の愛は、霊的なものであり、これらのものを決して生み出すことなく、人間存在に働きかけて、本来の栄えある姿に回復させ、可能性を開花させる。人間的なものが根こそぎにされた状態においてこそ、霊的な愛が始まる場所が生まれるのである。ボンヘッファーは主張する。「そのような霊的な愛は、人となって苦しみを受けられたイエス・キリストの中にのみ見出されるものである」と。そして、まさにこのことから、彼がその若き晩年に語った言葉、カール・バルトでさえそれを理解しなかったあの言葉が理解される。すなわち、「聖書は、人間を神の無力と苦難に向かわせる。苦しむ神だけが助けを与えることができる」と。

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2008/07/04

交わりの経験と信仰

 この卓越した著書「共に生きる生活」を「交わり」という本質的な主題をもって、それをキリスト者に賜った神への感謝と高らな賛美をもって始めたボンヘッファーが、今度はこの初章を驚くべき言葉により、締めくくるのである。すなわち「キリスト者の交わりの麗しい経験は、その生活の日ごとのパンに、恵みとして添えられている以上のものではない」と。また続けて、「神がわたしたちすべてに働きかけて下さったことをわたしたちは信仰において、神の最大の賜物として理解する。そのことは、わたしたちを喜ばせ、また祝福する。しかしそのことはまた、神が時としてそのような経験をわたしたちにお許しにならない時には、すべての経験を断念するようにもさせるのである」と。なんと麗しい言葉であろうか。
 すなわち「わたしたちは、信仰によって結ばれているのであって、経験によってではない」のである。ああ、このことを本当に理解することができたなら。それは、何を意味するだろうか。それは、私たちがこの世界にあって経験することが可能な、交わりのあらゆる祝福と幸福、たぶんその麗しい思い出まで含めて、それらすべてが信仰により、すでに実質的に、現実的に、私たちのものであり、また同時に経験でさえあるということである。
 この境地に至った者は、天国というものを、そしてそれをも包み込むところの神のすべての祝福を理解するであろう。ボンヘッファーは、獄中において、彼に特別に与えられた恵みの賜物によって、そのことを理解したのであった。

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