2012/01/28

スマートフォンの中の母

 母は、いまも私のスマートフォンの中にいる。生前、病棟の母を毎日のように撮影していたから。おびただしい肖像は、入院の日から、未明の死に顔に至るまで、収められていて、ときどき開いて見ていた。このところ事務的にいろいろと忙しく、しばらく見ないでいたが、最近また見てみて、今までに無い美しさを覚えた。それらは、死を前にしても安らかで、苦しんで死んだ様子はなかった。そこに、あらためて神のやさしさを感じた。
 最後まで、全身の力を使って、トイレに座って用を足していた母。それ以外には、なにもできることはなかった。日一日と力を失って行く母と話していて、「人間てなんだろう」と考えた。そんな母にとっては、「今日は、外はとても寒いよ」とか、「昨夜は、次男の帰りが遅かったよ」とか、「仕事で社長にほめられたらしいよ」とか、「長女も勉強頑張っているよ」とか、そんなことが話題のすべてだった。本当は、人間は、最後には、そんなことを聞いて、喜んだり、安心したりするだけがすべてなのだろう。それはきっと、最初から人間にとって意味のあるのは、そんなことだけだということを示しているのではないだろうか。そうなって初めて、いままで自分が大切にしたり、重要に思ったりしていたことが、実はただの塵に過ぎなかったことが明らかになるのではないだろうか。人間に必要なのは、究極的には、一つの純真な心と一畳のスペースだけなのだろう。そして、それが天国なのだと私には思えるのだ。そして、そこに神がおられる。そして、もう他には何もいらないのだ。それがすべてなのだと。

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2012/01/19

自分の魂を憎むということについて

 「この死すべき命にあって、その魂をこの世にある姿で愛する人は、永遠なる命の内にある魂を失う人である。逆に、魂をこの世の死すべきものとして憎む人は、魂を永遠の生のために護る人である」とエックハルトは語る。「この世を愛すること」と「自分を愛すること」という二つのこと、それらが同じことであるような愛があり、また、異なることであるような愛がある。前者は、いわゆる低い愛「エロース」であり、後者が高い愛「アガペー」である。神は、この世を愛し、ご自身の愛する独り子を十字架に架けられた。ここには、自分を捨てる「無私の愛」が示されている。しかし、さらに高い愛の認識においては、上記の二つのことは再び一致する。つまり、ここにおいては、神が世を愛するのは、それをご自身を愛するように愛するのである。そして、私たちに対しても、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言われるのである。
 それではなぜ、エックハルトは私たちに、魂を憎まなければならないと言うのか。それは、私たちが認識する魂の姿は、この世の姿であり、魂の本当の姿ではないからである。それゆえ、その魂の姿を愛する者は、実は魂を愛していることにはならず、返ってそれを憎んでいることにさえなるのである。そして、この世において魂を憎むことこそが、この世界と自分とを等しく愛するところの高い愛なのである。というのは、魂はこの世界と来るべき永遠の世界にまたがる存在なのであり、その真の姿は、この世の認識力では把握できないものだからである。そしてまた、その本来の姿でないものを愛することはまた、この世のすべてを間違った形態において愛することにもなり、それは再び、魂を正しく愛することにはならないのである。それゆえ、魂を憎むことこそがそれを愛して、永遠に存続させる道なのだとエックハルトは言うのである。
 それでは、魂を憎むとは、いったいどういうことなのか。それは一見、このブログカテゴリーのテーマである「変容」とは逆のことのようにも思えるのであるが。つまり、変容するためには、魂への理解が不可欠のように思えるのだが、実はそこにこそ危険が存在するのである。エックハルトの理解する「魂」は、認識することが不可能なものであり、それを認識しようとか、認識したという人々、また甚だしくは、それを感じたり、それを持ってして霊的な世界を体験しようというようなこと等々は、正に神が仕掛けた偽りの罠、錯覚の罠に捕らえられることになるのであり、神はそのようにして心の悪しき者たちを裁かれるのである。
 そこでこの説教を語るエックハルトの意図は、私たちの進むべきでない方向を明示すると共に、それを避けるための方法を示し、それらを持ってして、変容の方向性を提示するためである。つまり、私たちは変容を願うのであるが、その方法は、あくまで神の恩寵によるのであり、私たちがそれぞれの方法でそれを実現しようとしてはならないのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちの愛する主よ、わたしたちが魂を永遠の命のために護るよう、わたしたちの魂がまとう装いのもとでは、わたしたちが、わたしたちの魂を憎むようになることを。そのために神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/01/14

神のために神を捨て去るということについて

 「神のために神を捨て去る」とは、なんという矛盾した表現だろうか。しかし、その真の意味は、「自分の持っている辺境な神概念を捨てる」ということなのである。つまり、神を純粋に自分の外の対象として愛すること、偏見なく純粋に愛することの追求である。そしてエックハルトによれば、それは正に対象を捨て去り、もはやそれに執着しないことにより実現されるのである。それゆえこの愛は、自己の利益を求めない無私の愛である。しかし、この世界の対象にあっては、愛は執着を要求する。相手に慕われることを求めるのである。しかし、愛の対象が神である場合には、神は私たちに執着を要求しない。返って認識することを要求するのである。そして、この認識の目的は、自己の変革、すなわち変容なのである。というのは、神のすべてが善であり義であるゆえに、私たちから神への行為はあり得ず、ただ神から私たちへの良き行為があり得るのみだからである。そして、私たちは認識した良きことをそのまま実行しなければならない。そしてそれが神を愛するということなのである。
 エックハルトは語る、「神の永遠なる言をわたしたちが聞こうとするのを、三つのことが妨げる。第一は身体性であり、第二には多数性であり、第三には時間性である。人がもしこれらの三つのことを踏み越えて行ったならば、その人は永遠の内に住み、精神の内に住み、一性の内に、砂漠の内に住むこととなり、そこで永遠なる言を聞くこととなろう」と。私たちは、神を得ようと探し求める。しかし、神は探し出して獲得するようなものではない。神は、すでに私たちの内におられるのであるから。そこで、私たちが次になすべきことは「変容」すなわち自己の変革なのであり、上の三つのものの超克なのである。それは、「神を捨てる」ことすなわち「神を得ようとする自分を捨てる」ことである。そしてそのとき私たちは、真に変容への可能性を獲得するのである。
 それでは、この「変容」とは何であろうか。それはどのようにして実現されるのだろうか。まずそれは、自分の努力ではなく、神からのアプローチによるのである。それはいつ来るのだろうか。エックハルトによれば、まず私たちが自分を正しく認識することが必要である。自分が神からどのようなものとして創造されたのかということに関する認識である。それは、イエス・キリストの十字架を仰ぐことにより可能となる。天の父なる神が私たちをどれほど愛しておられるか、それは私たちがご自身の子であるからであるということがそこに示されている。そして、それを絶対的な事実として受け取るとき、一見それと矛盾するような啓示、例えば旧約聖書における悲惨な出来事の数々は、神の側の対応の問題というよりもむしろ私たち受け入れ側の問題であったことが明らかになる。それは、私たちがいかに神に近いものとして創造されたかということを示しているのである。それゆえ神は、御自身の実の子を扱うように人を扱われたのである。そのことは、旧約聖書のダビデやソロモンの息子たちとの関係や主イエスが語った放蕩息子の話に見ることができる。そしてエックハルトによれば、人がそのことを認識したとき、その人は神の独り子となる。というのも、あなたが神の独り子となるために必要なものすべては、神からすでにあなたに与えられているからである。それゆえそのために神の側で成すべきことはもはや何もない。あるのは、ただあなたの側における認識だけなのである。
 それをあなたが理解したとき、あなたは実質的に、名実ともに神の独り子となるのである。そしてエックハルトによれば、ひとたびそうなってしまえば、あとのことは自動的に生起する。神の愛が神ご自身を制止することを許さず、神はあなたを捕らえようと、急いでやって来られる。そしてあなたは、神の恩寵により、変容するのである。この世界において神を愛し、神の栄光を表す働きをすることができるために、そしてあなたが神にいつまでも従順で貞節を守り、どこまでも忠誠を尽くせるように。あらゆる世の誘惑は、もはやあなたにとって何の力も持たない。あなたが神以外のすべてを捨て去り、そして最後にあなたの神概念さえも捨て去ったからである。それゆえ、あなたを責め苛むものはもはや存在しない。そして、あなたを縛っていた罪の力もまた消えてしまったのであり、あなたがこのことを理解したときに、あなたは完全に罪から解放され、神の一人子へと変容するのである。

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