2017/09/07

宣教とは、なにか。。

 宣教は、戦いである。それも、全世界的な、宇宙を総動員した戦いである。そしてその目的は、この世界を神の下に奪回することである。被造物の頂点に位置するのが、神に象って造られた人間であるために、宣教活動の中心が福音を宣べ伝えることとなっているのではあるが、その最終目的は、そのことを通して、この世界のすべてが神の元に奪回されることなのである。
 そこで、まずはっきりさせておかなければならないのは、この場合の奪回とは何か、ということであろう。しかしながら、今日の宣教の状況から見て、これをはっきりさせることは容易なことではないと多くの人が考えるに違いない。そこでまず、そのことに関する私個人の考えが提示されなければならないだろう。
 私の考えを一言で言えば、「神の前にすべてのものが跪く」ということである。そう、まるでカルト教団か世界制覇を目論む独裁国家のようにである。というようなことを言うと、たぶん多くの人が異論を唱えることだろう。「それは、行き過ぎだ。それでは、愛も哀れみもない。」と。しかし、聖書のどこにそのようなことが言われているだろうか。終末論、千年王国、最後の審判、そのような最終的な歴史の結末に関する聖書の記述からすると、上の私の考えもそれほど外れてはいないとも思われるのである。そもそも、アブラハムその子がイサクを生け贄として捧げようとしたことも、律法における、神への冒涜に対する石打ちの刑等の厳しい裁き等々、聖書の中にそのような「絶対服従」の精神を読み取るのが自然ではないだろうか。
 それでは、なぜ多くの人が、この「絶対服従体制」について、「行き過ぎ」と考えるのだろうか。それは、この世界に「絶対服従体制」というか「絶対服従国家」の良い事例が皆無であり、あるのは人々に恐怖や嫌悪感を抱かせるような悪い事例しかないということによるのだと思う。それも仕方ないことだろう。この世界は「罪」の元に売られているからである。いったいこの世界には、悪魔が考え出した多くの偽物が氾濫している。上述の「国家」、「宗教」、「科学」、「芸術」、「学問」等々、それらの目的が神ではなく、この世界のものになってしまっている。
 しかし、偽札があれば本物の札が存在するように、偽の「絶対服従国家」があるのは、真の「絶対服従国家」が存在することを示している。そしてそれが、「神の国」なのである。
 そこでは、神への冒涜は無論「死」を意味するのだが、それは同時にまた無意味なことでもある。つまり、神は冒涜されるべきお方ではない。それゆえ、そのことに対する代価としての「死」も現実的なものではなく、神に対しては、賞賛だけが現実的なものである。神においては、「栄光」、「誉れ」その他、あらゆる良いことだけが存在するのである。
 このような話をしたのは、上記のこと。つまり「世界における神への絶対服従の確立」ということがすなわち宣教ということであり、そのことが宣教の鍵だと私は信じるからである。つまり、それ以下のことは、宣教ではなく、甚だしくは、宣教を妨害するものですらあるということである。
 というのも、神に絶対服従しないならば、その服従していない部分で一体何をするのだろうか。「自分を楽しませること」、「他人を楽しませること」等々ではないだろうか。しかし、「キリストでさえ、ご自身を楽しませることはなさらなかった」のである。私たちが人生で楽しむことがあるとすれば、それは「神が与えてくださったものを感謝して受ける」ことなのである。そして、それは私たちの人生を大いに豊かにする。「数えてみよ、主の恵み」、実にそれは十分にたくさんあるものであり、それだけあれば、私たちは、他に何がなくとも最高の人生を味わうことができるのである。反対に、神が与えておられないものを自分の力で勝ち取ろうとすれば、それは苦い人生と成り果てるであろう。
 そこで最後に再び、「宣教」とは何かということに話を戻そう。
 宣教とは、すなわち、私たちの生活を通して、「神への絶対服従体制」あるいは「神への絶対服従国家」の実例を提示することであり、その麗しさ、美しさ、広さ、高さ、深さを様々な形で、--そのもっとも典型的なものは、「主イエス・キリストの福音」なのであるが--、世の人に伝え、彼らをして神の元に奪回し、最終的にこの宇宙の全てを神の下に奪回することなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/08/25

着物は古びず、靴はすり減らず

 旧約聖書には、イスラエルの民が40年間荒野を放浪したことが記されている。そして、その結果、たくさんの人々が老化や病気等で世を去ったが、最後まで残った者たちの着物は古びず、靴はすり減らなかったと言われている。
 私は、60歳で個人事業を立ち上げた、その当時は、何もかも初めてで、自分一人でやらなければならなかったのでとても大変な思いをした。しかし、体を壊すこともなく、毎日の業務においても、助けてくれる人もいなかったが、全てが守られ、導かれてきた。そして、最近また会社を立ち上げ、そこでも、もっと大変な思いをしたが、体調を壊したこともないし、精神的にダメージを受けたこともなく今まで来ている。気分的には、もうやめたいと思ったことが何度も、いや常にと言った方が良いくらいあったが、それでも神の導きと信じてここまで歩いて来ることができた。
 旧約聖書の記事は、私の人生において、常に新しい。毎日を生きる上で、「ああ、このことは、旧約聖書のあのことと同じだ」と思い、そして、「ああ、やっと意味わ分かった」と感じて、その記事をまるで初めて読んだかのように感動することが少なくない。そんな時、旧約聖書は、まさに私のために書かれた書物なのだ、そして極端に感想を言えば、「旧約聖書は、私一人だけのために書かれた書物だ」と言いたいくらい、自分の人生にマッチしているように思う。そう、それは、人生そのものではないだろうか。つまり、「荒野の旅」というものは、人一人一人の人生を綴ったものであり、それは万人に適用可能であり、万人を導くことができるのだ。どこへというと、もちろん「約束の地」である。神があなたに与えようと決めておられる約束の地のことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/07/08

異言の祈りの対象

 最近、発見したことがある。それは、ある人にとっては、当たり前のことなのかもしれないのだが。それは、「異言の祈りの対象」ということについてである。
 異言自体は、自分にも、たぶん他人にも理解できない言葉である。それは、「御使いの言葉」とも言われるが、この地上にある言葉の場合もあり、そうでない場合もあるのだろう。いずれにしても、語っている人には理解できない。だから、それを語るのに、対象を限定せずに、ただ漠然と祈っていることが多かった。でもそれは、ちょっと退屈で、忍耐が必要な時間であった。
 でも、言葉の意味が分からないからといって、その祈りの対象を持たずに祈っていては、空を打っているようであり、祈りに実が入らないのも無理はないのではないだろうか。そこで、祈りの対象を設定してみた。例えば、「自分の仕事の中の困難」、「災害で苦しんでいる人のため」、「家族の護りのため」、そして「神を賛美するため」等々、祈りの対象を心に抱きながら異言の祈りをしてみると、その対象が変わったときに、明らかに異言の内容が変化することを発見した。つまり、聖霊が祈りの対象に合わせて、異言の言葉を選んでくださっているのだと思う。そして、再び同じ祈りの対象を設定すると、さきほどと同じような異言の内容となるのは、ちょっと不思議な気がする。
 これらのことから、神様は、異言の内容自体は、私たちの自由にはなさらないようなのだが、その祈りの対象については、私たちが積極的に決めることを許しておられる、あるいは、そうすることを望んでおられるように感じるのである。これは、実に驚くべきことである。そして、そのように、異言の祈りの対象を積極的に具体的に設定して、思いを込めて、熱烈に祈るとき、異言が以前にもまして流暢に流れ出ることを発見した。そして、このような異言の祈りの時は、本当に満たされ、潤され、啓発され、霊的に高められ、安らぎを与えられる、祝福された、そして聖なる戦いのときとなることを知ったのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

«間柄