2017/12/09

心のエジプト

 もしあなたたちが、『我々はこの国にとどまることはできない』と言って、あなたたちの神である主の声に聞き従わず、また、『いや、エジプトの地へ行こう。あそこでは戦争もないし、危険を知らせる角笛の音もせず、食べ物がなくて飢えることもない。あそこへ行って住もう』と言うなら、今、ユダの残った人々よ、主の言葉を聞くがよい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。もしあなたたちが、どうしてもエジプトへ行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちはそこで死ぬ。エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない。(エレミヤ書第42章13〜17節)

 私が独立開業してからもう4年目が過ぎようとしている。当初は個人事業で始め、3年を経過したが、その後、急に株式会社を設立することになった。個人事業を始める時も、あちこち奔走し、定年した老体に鞭打ち、必死になって働いた。そして、株式会社に至っては、完全に自分の能力を超えていたために、その道が神の御心であることを疑い、迷い、何度も避け、逃げ回り、「神様、私は、この道を歩む必要はありません。今の状態で十分です。どうぞやめさせてください。」と何度も祈ったものであった。でも、この道から逃れることはできなかった。そして、その道は、実際に茨の道でもあった。恐れていたことが何度も襲い掛かり、「もう駄目だ」と思ったり、「やっぱりこれは神の御心ではなく、私の思い違いだったのだ」と後悔をした。でも神は、そのような苦難から、全て救い出してくださった。
 そして、今に至っても、この道は困難な道であることに変わりなく、いつ苦境に立たされるか分からないのである。そんなことを思うとき、この道から反れて、例えば再雇用とか、元のサラリーマン生活に戻れたらなんと気楽だろうかと思う。しかしそれは、「エジプトへ帰る」ことなのかも知れないと思った。
 人は、もしかしたら私のことを贅沢な境遇だと思うかもしれない。そして、サラリーマン生活のことを「エジプトの生活」に比喩することを失礼なことだと思うかもしれない。それは、まさにその通りかもしれない。しかし、今私は純粋に自分だけのことに限って語っているのであり、この比喩は私だけにしか当てはまらないものなのだ。同様に、他の人には、その人なりのエジプト生活、バビロン生活、エルサレムでの生活があるに違いない。聖書は、そのように各個人に語りかけるのである。
 そこで、私に語りかけている、「もしエジプトへ帰るなら、あなたはそこで死ぬ」という言葉についてだが。
 この「死ぬ」とは、肉体の死ではなく、精神の死を意味する。多くの人は、精神の死よりも肉体の死を恐れる。神がアダムに「その実を取って食べると、あなたは死ぬだろう」と言われ、彼が実際に命の木の実を取って食べたとき、彼は肉体的に死ぬことはなかったばかりか、「その目が開け、自分たちが裸であることを知った」とある。そのように「精神の死」は、外見上恐ろしいものではなく、一見良いものにさえ見える。しかし、実際はそれは、際限も無く恐ろしいものであることを私たちは知らない。なぜなら、アダムが体験したその「精神の死」により、人類の果てしもない放浪と残虐、すなわち罪との戦いの歴史が始まったからである。
 そのように、私に向かって語られた、「もしエジプトへ帰るなら、あなたはそこで死ぬ」との言葉は、私にとっては、「精神の死」という意味であり、それは、神が私の人生に託されたご計画からの脱落を意味するのである。この場に及んで、私が今の戦いの生活を逃れ、元の安穏とした生活に戻るなら、神のご計画は私の人生に成就しなくなり、私のこれまでの人生の意味は失われ、私の生きている意味は喪失する。もはや、そのような段階に来てしまったと思っている。イスラエルの民がエジプトに留まっていたときには、彼らは過酷な労働はあったものの、他の民族の攻撃からは護られ、十分な衣食住を与えられていた。しかし、出エジプトにより彼らは荒野に誘い出され、約束の地を目指す旅に入った。もはや彼らには、逆戻りすることは許されなかったのである。それと同様に、神により、それまでの安穏とした生活から連れ出された者は、もはやそこへ逆戻りすることは許されず、それは実に、「精神の死」を意味するのである。
 もしあなたがいま、私と同じような境遇におられるなら、私と同じように考えてくださることを願う。神があなたを召されたそのご計画に従って雄々しく歩まれることを。あなたがどこまでも神に従い行くとき、神は、あなたの敵の前で、あなたのために宴を設け、あなたの杯を良い酒で溢れさせてくださるのだから。

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偶像崇拝について

 偶像とは、「人間がそれ自体が良いと想定したもの」と定義することができると思う。しかし、イエス・キリストが「良い方は、父なる神以外にいない」と言っておられることから、良いものは、天から、光の父から降ってきたもの以外にはない。そこで人が、そのようなもの以外を「それ自体が良いもの」と想定するならば、それはすなわち「偶像」となる。
 この定義によれば、例えば芸術は偶像であり得る。また、科学は偶像であり得る。つまり、それがどのように私たちのこの世の幸福につながり、文化的な生活にとって必須のものであろうとも、それが「それ自体で良いものであり得る」と想定されるならば、それは偶像であり、人を神から引き離し、苦難へ誘うものとさえなるのである。
 そこで、もし自分の心の中から偶像を取り除きたいと願うなら、その人は、まず何をおいても、神の前に跪き、ひれ伏さなければならない。つまり、偶像崇拝を排除するには、その全く反対である、真の神を礼拝することが必要なのであり、全ての回復は、そこから始まるのである。ただそのことこそが、彼の持っている知識や財産、教訓や悟り、それらの全てを神の元へ奪還し、彼の心の宮から偶像を運び出すことに貢献するのである。イエス・キリストは、そのために縄の鞭を使われた。彼は、宮で商売している人々に優しく取り入ろうとはされなかった。ただ彼らを激しい憤りにより、追い出されたのである。だから、私たちも自分の心の宮において、そのように振る舞わなければならない。それ以外の方法で、偶像を追い出すことはできないのである。
 私たちは、自分の心から偶像が運び出された後の精神の宮たる心の状態を想像することは難しい。それは、私たちの思いを遥かに超えている。それは、私たちが創造し得るものではなく、神たる主イエス・キリストが創造されるものであり、主ご自身ですらあるとも言える。だから、それは私たちに属するものではなく、それでいて私たち自身でもあるのである。

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2017/10/06

誰も教えてくれなかったこと

 クリスチャンとして、もう30年以上も生きてきたけど、いままで誰も教えてくれなかったことがある。それは、一言で言えば、神様の前で何が正しく、何が正しくないのかということだ。
 聖書には、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」と言われている。それなのに例えば、何か偉業を成し遂げた人を大いに賞賛したり、音楽、絵画等の芸術をことさら価値或るものと位置づけたりということが良いこととされている。しかし、良く考えてみれば、そのようなことは結局、人の思いを神から引き離すことになる。だから、例え人を褒めるようなことがあったとしても、最終的にはその人を創造され、育ててこられた神が褒め称えられる必要がある。
 しかし、この世界で、一々そのような究極的な賞賛を行っているわけには実際は行かない。すべての人がクリスチャンではなく、むしろノンクリスチャンの方が圧倒的に多いのだから、彼らに対して、「あなたがすばらしいんじゃなくて、本当はあなたを造られた神がすばらしいんだよ」なんて言っていたら、偏屈な人間と思われてしまうだろう。
 そこで、ノンクリスチャンの手前、外面上は人を褒め、心の中では神を褒めるというような妥協的な対応に終始してしまうことになる。学問や芸術なんかについて言及するときにも、同じようなことになってしまう。牧師でさえ、教会員の中には、様々な信仰暦の人がいたり、求道者がいたりすることを考慮すると、上記のような対応にならざるを得ないのだろう。
 そこで、求道者や信仰暦の浅い信者たちは、それが本当のことだと思い込んでしまう。私もその一人だった。そして、この世界が罪に満ちていることを忘れ、この世界が何かすばらしいもので満ちているように思ってしまい、神を求めることを忘れ、この世のものを求めながら一生を過ごすことになってしまうのである。
 しかし真実は、この世界には、何一つ益となるものはなく、それは聖書のみことばの中にだけある。例え、自分を犠牲にして他人の命を救うような献身的な行為にしても、それが、その人自身が褒め称えられるような結果を招くならば、そのことは益とはならないのである。
 大切なことは何かというと、この世界の事柄から目を転じて、神のことがらへ集中することであり、そこにこそすべての良いことがあるのである。その本当に良いものをこの世界に現すのが教会の役目だと思うのだが、上記のような状況では、一般人が神を知ることができないのも無理のないことだろう。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、教会の中に改革を起こすことである。この「改革」とはなにか。それは、真のクリスチャンを見つけて、その人たちと真実な礼拝、真実な交わりを実践することである。そこに現されるのは、文字通り真実であり、そこでは神のみが崇められ、褒め称えられ、そこに神の栄光が現されるなら、世の人もきっとそのすばらしさに気付くことがあるに違いないと思うのである。

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