2017/10/06

誰も教えてくれなかったこと

 クリスチャンとして、もう30年以上も生きてきたけど、いままで誰も教えてくれなかったことがある。それは、一言で言えば、神様の前で何が正しく、何が正しくないのかということだ。
 聖書には、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」と言われている。それなのに例えば、何か偉業を成し遂げた人を大いに賞賛したり、音楽、絵画等の芸術をことさら価値或るものと位置づけたりということが良いこととされている。しかし、良く考えてみれば、そのようなことは結局、人の思いを神から引き離すことになる。だから、例え人を褒めるようなことがあったとしても、最終的にはその人を創造され、育ててこられた神が褒め称えられる必要がある。
 しかし、この世界で、一々そのような究極的な賞賛を行っているわけには実際は行かない。すべての人がクリスチャンではなく、むしろノンクリスチャンの方が圧倒的に多いのだから、彼らに対して、「あなたがすばらしいんじゃなくて、本当はあなたを造られた神がすばらしいんだよ」なんて言っていたら、偏屈な人間と思われてしまうだろう。
 そこで、ノンクリスチャンの手前、外面上は人を褒め、心の中では神を褒めるというような妥協的な対応に終始してしまうことになる。学問や芸術なんかについて言及するときにも、同じようなことになってしまう。牧師でさえ、教会員の中には、様々な信仰暦の人がいたり、求道者がいたりすることを考慮すると、上記のような対応にならざるを得ないのだろう。
 そこで、求道者や信仰暦の浅い信者たちは、それが本当のことだと思い込んでしまう。私もその一人だった。そして、この世界が罪に満ちていることを忘れ、この世界が何かすばらしいもので満ちているように思ってしまい、神を求めることを忘れ、この世のものを求めながら一生を過ごすことになってしまうのである。
 しかし真実は、この世界には、何一つ益となるものはなく、それは聖書のみことばの中にだけある。例え、自分を犠牲にして他人の命を救うような献身的な行為にしても、それが、その人自身が褒め称えられるような結果を招くならば、そのことは益とはならないのである。
 大切なことは何かというと、この世界の事柄から目を転じて、神のことがらへ集中することであり、そこにこそすべての良いことがあるのである。その本当に良いものをこの世界に現すのが教会の役目だと思うのだが、上記のような状況では、一般人が神を知ることができないのも無理のないことだろう。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、教会の中に改革を起こすことである。この「改革」とはなにか。それは、真のクリスチャンを見つけて、その人たちと真実な礼拝、真実な交わりを実践することである。そこに現されるのは、文字通り真実であり、そこでは神のみが崇められ、褒め称えられ、そこに神の栄光が現されるなら、世の人もきっとそのすばらしさに気付くことがあるに違いないと思うのである。

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2017/09/30

革ジャケット

Kawajan 2年前に買った革のライディングジャケット。ちょっと気に入らず、これまでほとんど着ることもなかったけど、秋になって、乗っていて少し肌寒さを感じてきたので、思い切って出して着てみた。
 割と安かっただけに、革が硬く、身につけると、私がジャケットを着ているのか、ジャケットが私を着ているのか、分からなくなる。つまり、ジャケットと言うものは、私の体に合わせて馴染んでくれるのが普通だと思うのだが、これは、それを着るために、私の体がジャケットの形に変形しなければならないようで、とても窮屈で苦痛を伴う。しかし、ライダーが危険から身を守るための最適な鎧のようにも思われる。
 でも、少しづつ着慣れしてきているようで、今日は、歩いていてなんだかこの窮屈さが快感に思えるようになった。もしかすると仕事で、もっと大きな重圧を受けているためなのかも知れない。

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2017/09/07

宣教とは、なにか。。

 宣教は、戦いである。それも、全世界的な、宇宙を総動員した戦いである。そしてその目的は、この世界を神の下に奪回することである。被造物の頂点に位置するのが、神に象って造られた人間であるために、宣教活動の中心が福音を宣べ伝えることとなっているのではあるが、その最終目的は、そのことを通して、この世界のすべてが神の元に奪回されることなのである。
 そこで、まずはっきりさせておかなければならないのは、この場合の奪回とは何か、ということであろう。しかしながら、今日の宣教の状況から見て、これをはっきりさせることは容易なことではないと多くの人が考えるに違いない。そこでまず、そのことに関する私個人の考えが提示されなければならないだろう。
 私の考えを一言で言えば、「神の前にすべてのものが跪く」ということである。そう、まるでカルト教団か世界制覇を目論む独裁国家のようにである。というようなことを言うと、たぶん多くの人が異論を唱えることだろう。「それは、行き過ぎだ。それでは、愛も哀れみもない。」と。しかし、聖書のどこにそのようなことが言われているだろうか。終末論、千年王国、最後の審判、そのような最終的な歴史の結末に関する聖書の記述からすると、上の私の考えもそれほど外れてはいないとも思われるのである。そもそも、アブラハムその子がイサクを生け贄として捧げようとしたことも、律法における、神への冒涜に対する石打ちの刑等の厳しい裁き等々、聖書の中にそのような「絶対服従」の精神を読み取るのが自然ではないだろうか。
 それでは、なぜ多くの人が、この「絶対服従体制」について、「行き過ぎ」と考えるのだろうか。それは、この世界に「絶対服従体制」というか「絶対服従国家」の良い事例が皆無であり、あるのは人々に恐怖や嫌悪感を抱かせるような悪い事例しかないということによるのだと思う。それも仕方ないことだろう。この世界は「罪」の元に売られているからである。いったいこの世界には、悪魔が考え出した多くの偽物が氾濫している。上述の「国家」、「宗教」、「科学」、「芸術」、「学問」等々、それらの目的が神ではなく、この世界のものになってしまっている。
 しかし、偽札があれば本物の札が存在するように、偽の「絶対服従国家」があるのは、真の「絶対服従国家」が存在することを示している。そしてそれが、「神の国」なのである。
 そこでは、神への冒涜は無論「死」を意味するのだが、それは同時にまた無意味なことでもある。つまり、神は冒涜されるべきお方ではない。それゆえ、そのことに対する代価としての「死」も現実的なものではなく、神に対しては、賞賛だけが現実的なものである。神においては、「栄光」、「誉れ」その他、あらゆる良いことだけが存在するのである。
 このような話をしたのは、上記のこと。つまり「世界における神への絶対服従の確立」ということがすなわち宣教ということであり、そのことが宣教の鍵だと私は信じるからである。つまり、それ以下のことは、宣教ではなく、甚だしくは、宣教を妨害するものですらあるということである。
 というのも、神に絶対服従しないならば、その服従していない部分で一体何をするのだろうか。「自分を楽しませること」、「他人を楽しませること」等々ではないだろうか。しかし、「キリストでさえ、ご自身を楽しませることはなさらなかった」のである。私たちが人生で楽しむことがあるとすれば、それは「神が与えてくださったものを感謝して受ける」ことなのである。そして、それは私たちの人生を大いに豊かにする。「数えてみよ、主の恵み」、実にそれは十分にたくさんあるものであり、それだけあれば、私たちは、他に何がなくとも最高の人生を味わうことができるのである。反対に、神が与えておられないものを自分の力で勝ち取ろうとすれば、それは苦い人生と成り果てるであろう。
 そこで最後に再び、「宣教」とは何かということに話を戻そう。
 宣教とは、すなわち、私たちの生活を通して、「神への絶対服従体制」あるいは「神への絶対服従国家」の実例を提示することであり、その麗しさ、美しさ、広さ、高さ、深さを様々な形で、--そのもっとも典型的なものは、「主イエス・キリストの福音」なのであるが--、世の人に伝え、彼らをして神の元に奪回し、最終的にこの宇宙の全てを神の下に奪回することなのである。

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