2017/07/08

異言の祈りの対象

 最近、発見したことがある。それは、ある人にとっては、当たり前のことなのかもしれないのだが。それは、「異言の祈りの対象」ということについてである。
 異言自体は、自分にも、たぶん他人にも理解できない言葉である。それは、「御使いの言葉」とも言われるが、この地上にある言葉の場合もあり、そうでない場合もあるのだろう。いずれにしても、語っている人には理解できない。だから、それを語るのに、対象を限定せずに、ただ漠然と祈っていることが多かった。でもそれは、ちょっと退屈で、忍耐が必要な時間であった。
 でも、言葉の意味が分からないからといって、その祈りの対象を持たずに祈っていては、空を打っているようであり、祈りに実が入らないのも無理はないのではないだろうか。そこで、祈りの対象を設定してみた。例えば、「自分の仕事の中の困難」、「災害で苦しんでいる人のため」、「家族の護りのため」、そして「神を賛美するため」等々、祈りの対象を心に抱きながら異言の祈りをしてみると、その対象が変わったときに、明らかに異言の内容が変化することを発見した。つまり、聖霊が祈りの対象に合わせて、異言の言葉を選んでくださっているのだと思う。そして、再び同じ祈りの対象を設定すると、さきほどと同じような異言の内容となるのは、ちょっと不思議な気がする。
 これらのことから、神様は、異言の内容自体は、私たちの自由にはなさらないようなのだが、その祈りの対象については、私たちが積極的に決めることを許しておられる、あるいは、そうすることを望んでおられるように感じるのである。これは、実に驚くべきことである。そして、そのように、異言の祈りの対象を積極的に具体的に設定して、思いを込めて、熱烈に祈るとき、異言が以前にもまして流暢に流れ出ることを発見した。そして、このような異言の祈りの時は、本当に満たされ、潤され、啓発され、霊的に高められ、安らぎを与えられる、祝福された、そして聖なる戦いのときとなることを知ったのである。

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2016/12/22

間柄

Bike バイクからは、色々と教えられることも多い。例えば、バイクは後輪で曲がるということすら以前は知らなかった。しかし、自分の体重と併せて300kgを超える重量を前輪だけで受け止めて曲がるというのは、実は危険極まりないことらしい。むしろ、傾いた後輪で路面を蹴ることにより、円周方向の動力を発生させて、前輪を中心に車体を回転させるようにして曲がって行くのが安全なのである。それから、左右の体重移動によるステップへの荷重も曲がるためには重要なことらしい。それから、曲がって行く方向へ顔を向けること等々、バイクと付き合うには多くのマナーがあり、それらを守ることがバイクと親密な間柄になることに繋がる。そんなある意味で忙しい乗り物でありながら、乗って走っていると心が落ち着き、今まで混乱していた胸の内がすっきりと整理されてくるのは、やっぱりただの機械ではなく、生きた友達と言えるように思う。だから、ツーリングには独りで行くのが一番だ。本などで興味ある場所を見つけたら、すぐに本を閉じて発信、しばらくの後にはもうその場所にいる。埼玉だから。そして、Uターンして帰宅後は、家内が帰って来る前に洗濯物を取り込んで畳んでおく。そんなフットワークの良いところも魅力の一つなのかもしれない。

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2016/08/20

王としてのキリスト

 イスラエルという民族は、たぶん出エジプトにおいて誕生したのだと思う。それ以前は、彼らは一つの民族という意識をおそらく持っていなかっただろう。その意味で、エジプトにおける奴隷生活は、必要だったのだろう。そして、そのころ彼らを率いていたのは、モーセという神から選ばれた人であった。その後、士師の時代を経て、ついにイスラエルは王国となっていった。それは、神のご計画であり、全ては王の王たる主イエスを迎えるための準備だったのである。
 このような変化は、私たちの人生においても適用される。つまり、心を治めるものが何も存在しない状態がまず想定される。そのような心は、いつ誘惑に屈するか分からない程、弱く不安定で、自分がどこへ行くのかさえ分からない。次に、人は何かの価値観によって行動するようになる。例えば、士師のように強いということが一つの価値の基準となり得る。しかし、それには、客観性というものがない。「各々が良いと思うことを行っていた」と士師記にある通りである。次に、ついに人は、絶対的な価値観に到達する。その背景には、常に宗教的な概念があり、神の意思が彼の拠り所となる。しかし、彼にとってはそれは、あまりに抽象的で、実践的ではないために、奇跡でも起こらない限り、向かってくる敵に対抗することはできない。彼が実生活の個々の問題に現実的に対応するためには、どうしても、日常の個々の問題を裁き、彼の先頭に立って戦う一人の王が必要なのであり、それこそがイエス・キリストなのである。
 つまり、彼の生涯は、キリストという王を心に迎えるまでは、完全にならないのであり、その日が来るまで、彼の心の探究は続くのであり、苦難もまた続くのである。この一連のプロセスは、人の心における飽くなき探求であり、荒野の旅である。しかしそれは、終わりのない旅ではなく、完全な救いとしての、福音が準備した完成への確実な道筋なのである。

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