2018/05/07

聖と俗を区別する

 あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。  レビ記10:10〜11

 私たちの心の中には、神の聖霊が宿っているので、それは、生きた神殿と言えるだろう。しかし、それは、また同時に私たちの生来の肉なる心の住み家でもある。しかし、この聖なるものと俗なるものは、混在しているのではなく、はっきりと区別されなければならない。ここに今日私たちがレビ記を読む意義がある。すなわち、神は、私たちにどのように聖と俗を区別するように教えておられるかを学ぶのである。それと同時に、そのようにして区別された、きわめて聖なるものが、また常に私たちの内にあるように、神が定められた、その驚異を知り、神を讃えるのである。
 私たちが、そのように、自分の内に聖と俗を区別することを覚えるときに、初めてその聖なるものが、私たちの内で輝きを放つようになる。かつて、一般の民が、この聖なるものをかいま見ることは、そのまま死を意味した。アロンのような、神に選ばれた祭司だけが、至聖所に入り、その聖なるものを垣間見ることを許された。しかしその場合にも、丹念に身を清め、香油を注ぎ、額には「神の聖なる者」という額当てを着けなければならなかった。そして、一つ間違えば、待っているのは死であり、その訪れを外部の者が察知できるように、祭服の裾に付けた鈴の音が常に彼がまだ生きていることを告げていた。
 今日、私たちは、自分の心の中で、このアロン彼自身なのである。そして、自分の内に、聖なるものと俗なるものを区別するとき、このアロンの感じていた思いをまた自分の内にも見出すのであり、そのようにして、自分の心の王国のために、罪の贖いをすることができる。そこで流されるのは、動物の血ではなく、十字架に架けられた、主イエス・キリストの血であり、ここにおいて、初めて聖めの業が完成するのである。
 あなたは、こころして、神の賜物を自分の肉なる心の内に捜し求めることがないように気をつける必要がある。あなたはそれを、天からあなたの内に降って来た、聖なるものの中に探すべきである。そうすればそれは、あなたの心の病を癒し、肉体の病を取り去り、さらにあなたの体から溢れ出して、周りの人にまで影響を及ぼすだろう。それは、あなたが、自分の内に聖なるものと俗なるものを区別することにより、心の内に神を正しく迎えたからであり、そのようにあなたは、今日の家庭や社会における祭司なのである。

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2018/05/04

心の祭壇を築くために

 「心の祭壇」ということが時々言われることがある。それは、信仰の実践的な教えであり、毎日の霊的な戦いに必要なものだと思う。というのも、生来の私たちは、罪の支配の中にあるからである。「キリストの贖いが私たちを罪から解放した」と言われていながら、私たちが日常的に罪を犯すことがあるなら、その原因の一つとして、私たちが「肉なる人」に従って歩んでいることがあると思う。
 つまり、私たちの内には、「肉なる人」が住んでおり、その影響は、キリストを信じてからも衰えずにあるということである。しかし、キリストの贖いを受けた者には、聖霊が与えられ、新しい心が与えられる。「第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る」と言われている通りである。もし私たちが、この「第二の人」に従って歩むならば、私たちはもはや罪を犯すことはないだろう。そこで問題は、私たちがいかにしてこの「第二の人」によって日常を生きるようになれるかということであり、それが「心に祭壇を築く」ということだと思うのである。
 それにはまず、「第一の人」と「第二の人」が自分の中で区別されなければならない。すなわち、自分がどんなときに「第一の人」に従って歩んでおり、またどんなときに「第二の人」に従って歩んでいるのかをきちんと認識できるようにならなければならない。
 まず、明確なことから始めるべきであろう。それは、「神を賛美する」、「神を礼拝する」ということである。このことをしているのは、明らかに「第二の人」である。それに対して、「人のことを悪く思ったり」、「心配したり」、「恐れたり」、「不平を言ったり」、「憎んだり」、そういうことをするのは、「第一の人」である。この両極端から始めて、段々と曖昧な両者の境界線の部分を判別できるようになることが必要だと思う。そこあるものは、「~のために」とか、「~だから」とか「~しかないから」とか、様々な理由付けであり、それらがきちんと判断できるようになれば、心の祭壇が堅固なものになると思うのであり、それには、み言葉と祈りによる吟味が必要となる。
 そして、そのような内的な努力と並行して、少し外的とも言える努力も役に立つだろう。それは、「私は、天から来た人を生きている」と宣言することであり、「第一の生来の人とは、もはや関係がない」と宣言することである。そのようにして、内なる人が洗練されてくることにより、その内面に相応しくないもの、つまり、俗的な心、呪い、肉体的な病気、精神病等もその人から離れ去ることが期待できると思う。
 そのようにして、内実共に「天から来た第二の人」によって生きる存在に自分がなっていくことにより、これまでとは比較にならないほどの、主の働きをすることができるようになると思われるのである。
 次に期待できるものは、幻である。これは、上記のようにその人の内面が洗練され、「天から来た第二の人」によって日常的に生きるようになったとき、神がその人に幻を与え、それが実現を始めることが期待できるのである。それにより、その人の人生は、もはや地から生まれた生来の性質を超え、その人の人生のすべてが文字通り「天から来た第二の人生」となり得るのである。

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2018/04/29

なにもかもが・・・

Naguri 思い通りに行かないときがある。そんなときは、バイクに乗るのも億劫な気分になる。でも、思い切ってエンジンを掛けて走り出す。いつもよりゆっくりと、噛みしめるように走っていく。アスファルトの道路を走りながらつぶやく、「イエスさま、今日は最低の気分です。本当にいやになります。どうしてこんな状態なんでしょうか。」すると心の中に、「例えば、どんなことかな。」と言われたように思う。「そうですね、昨夜は、夜中の1時まで働きましたが、何も解決しませんでした。それから、私の体も壊れかけています」、すると、「でも、今日は解決できるかも知れないじゃないか。それから、体もだめになったわけじゃないだろう」「そうですか、そうかも知れませんね」、「それからあと何が問題なんだ?」、「ええと、今はそれくらいですかね」。そうやってしばらく走って、もう山里に入るころには、不思議と心が元どおりになっているのに気づく。「そうですねイエスさま。もう一度頑張ってみますよ。」なんだか、自分があのときのペテロになったように思った。

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«「神の前にどのように生きるべきか」ということについて